日本では、人間性をまず大切にする 「日本教について」を読んで
以前、イザヤ・ベンダサン著山本七平訳の、「日本教について」という本をご紹介しました。読み返してみてみると、示唆に富む本だと思います。
日本人には、共通する考え方があり、日本人が意識しているしているかどうかに関わらず、共通のものであると言っています。それは、いろんな思想、例えば仏教やキリスト教、共産主義などの思想があったとしても、日本人がそれを受け取る時に、必ず日本教という、これは山本七平さんの造語ですが、ベースにあって、その上に宗教・思想を捉えようとしている、と言うことだと思います。
71頁に、こんなことを書いています。
「日本の新聞雑誌を見ていますと、実に執拗なまでに絶えず強調されている言葉があります。それはまず人間であれという主張です。
教師である前に人間であれ、政治家である前に人間であれ、裁判官である前に人間であれ、検事である前に人間であれ、官吏である前に人間であれに始まり、学者にある前に人間であれ、宗教家である前に人間であれと続き、また、あの人はクリスチャンとしては立派だが人間としては尊敬できないという言い方もあり、さらに父親である前に人間であれという言葉まであります。
この「人間であれ」という言葉は何を主張しているのでしょう。一言に言えばまず日本教徒であるということで、言い換えれば日本教の教義に忠実であるということなのです。」
この考え方は、確かにそうかもしれません。人間であれというのはどういうことかと言えば、例えば人を裏切らないとか、潔癖であるとか、そういう人間としての純粋な生き方について規定しているものだと思います。
冒頭に面白いメッセージを紹介しています。14ページに、徳川家康の部下が、一向宗一揆を鎮圧する際に、この部下がとった行動について書いています。
「彼が、まだ小領主に過ぎなかった頃、領内で反乱が起きました。これは一向宗という仏教の一派の反乱です。宗教的反乱と同じように、この時の反乱も大変に鎮圧が困難でしたが、実はその大きな理由の一つが、鎮圧に向かった彼の部下の指揮官が、熱心な一向宗の信徒だったからです。この指揮官は、家康が督戦に来ると戦い、家康が去ると戦いをやめていたことがわかりました。こういうことが明らかになると、300年前の世界ではいずれの国であれ死刑です。そしておそらく現代でも、ある国々では死刑でしょう。
家康は激怒して、彼のところに来ました。しかし彼は、自分の部下を処刑することは好みませんでしたので、最後のチャンスを与えようと思い、次のように言いました。
「処刑か改宗かどちらを選ぶか」
部下は平然として答えました。
「改宗はしません。処刑してください。」
そして彼は土の上に座し、首を差し出しました。
家康は刀を抜いて振りかけましたが、何を思ったか急に刀を下ろして鞘に収めると、
「こんな頑固者は処刑してもしようがない」と言いました。
その瞬間、この部下は彼の方を振り向くと、全く突然に、
「ただいま改宗致しました」と言いました。
家康は驚き、
「お前は何というひねくれ者だ。処刑すると言えば改宗しないといい、処刑をやめれば改宗するという。一体どういう訳だ」と聞きました。
部下は答えて言いました。
「命が惜しくて改宗したとられることは、サムライの矜持が許さない。これで私はたとえ改宗しても、命惜しさに改修したのではないことが明らかになりますから、改宗します」
要は日本人というのは、名誉のためには命も惜しまない、それから人の為には命を差し出すと、そういったことが美徳とされました。そして、何かを隠すとか、何かごまかすとかいうことを、極端に嫌う潔癖なところがあります。
人間が本当に純粋で潔癖で人を助けることができるかというと、それはなかなか難しいことで、いろんな犯罪も日本では行われているわけですが、人間としてこうあるべきだという不文律の、しかし明確な基準というものがあり、それが日本人が意識しない中で共有されている、そういう価値観が、山本氏の言葉を借りれば「日本教」というものだと思います。
私はこの日本教というのは、大切な日本人の財産だと思います。そういったものがあるから、例えば東日本大震災の時も、食物を奪い合うような略奪行為はおきませんでしたし、むしろ助け合って生きていこうという日本人の良さが発揮されて、それが世界中でニュースになったぐらいです。
だから例えばキリスト教がなぜ日本で浸透しないのかという話もありますが、この日本人としての文化を無視して乗り込んでこようとすると、逆にうまくいかない。逆に、日本人としての良さを尊重するのであれば、大きく発展するのだろうと思います。自分も、日本人ということをベースに置いて信仰しているのだろうと、改めて思いました。
信仰と、日本人であることは、対立概念ではなく、むしろ日本人であるからこそ、信仰を大切にする純粋さを求めるような生き方ができるのではないかと、私は思います。
私は、ITコンサルティングを仕事にしています。少し専門用語になりますが、OS、オペレーションシステムが、日本教ということではないかと思います。
コンピューターは、機械の上にOSがあって、OSの上にアプリケーションが動いています。例えば、WindowsはOS、オペレーションシステムの一つです。その上に、WordやExcelといったプログラム、アプリケーションが動いています。日本の場合は、この日本式のOSがあり、欧米人ならそのOS、その他の国々では別のOSがあるというわけです。例えば、MacのOSはWindowsとは別ですが、その上で動くアプリケーションは同じです。民族によって、そのアイデンティティは異なるものであり、それは大切にするべきです。それがないと、コンピューター自体が動きません。そして、その上にアプリケーションがあって、それが宗教であり政治であるかもしれませんが、大切なのは、OSそのもののを書き換えようとしても、それはうまくいかないということです。
それぞれの民族、文化、そういったものをお互いに尊重しながら、共通する理念に基づいて活動し、主張していく、ということがよいのだと思います。
動画はこちら
https://youtu.be/h-Ahlcqbxc0


