日本教について イザヤ・ベンダサン
「日本人とユダヤ人」で有名なイザヤ・ベンダサン(山本七平訳)の著作で、「日本教について」を読みました。
日本人は、意識しているかいないかに関わらず、「日本教」とも言うべき思想をもっていて、それは「人としてどうなのか」が常に問われるものだ、と言います。
日本人は、和をもって貴しと言いますが、和を乱すものはよくないものとされ、それは善・悪という基準とも異なるものです。孤立化をするものは、排斥されてしまいます。
尊王攘夷を叫んでいた人々は、明治維新で開国すると、一斉に主張をかえました。戦前、戦争を推進していた人々は、戦後一斉に反戦に変わりました。どうして一斉に主張を変えられるかと言えば、もともと実体を示す言葉と建前を示す言葉がバランスをとっていて、それがひっくり返っても人間を中心とした支点は全く変わっておらず、日本人の中ではとくに矛盾を感じない、それが日本教の特徴だというわけです。
日本にキリスト教が浸透しない理由は、この「日本教」の存在が大きいと、クラウドチャーチの小林牧仕も発信していたかと思います。
この日本教の国にキリスト教をもちこんでも、日本教キリスト支部としてしか受け入れられません。おなじように、日本教天理教支部、日本教創価学会支部のように、日本教の範囲内でしか宗教は受け入れられないという訳です。
山本七平は、「空気の研究」という本も書いていますが、その中で日本社会の特徴として、その場の空気が意思決定を司るという指摘をしています。「空気を読まない」というのは評価を下げる表現ですが、誰が本当の意思決定者かがわからない、従って責任者がわからないような社会だというわけです。
日本の文化を考える際には、この日本教について、掘り下げてみる必要はありそうです。
動画はこちら
https://youtu.be/D9q1euT8EXE


