宗教者間対話
家庭連合については、解散命令請求が申し立てられ、多くの人々がネガティブな印象を持っています。
その一方で、今年になってから大きな変化と言えるのは、宗教者の中に、家庭連合の解散命令請求はおかしい、拉致監禁はおかしい、と発言する方々が登場してきたことだと思います。信教の自由と人権を守るシンポジウムに参加された中川晴久牧師であり、毎日オンライン礼拝をしているドラゴン牧師、岩本龍弘氏です。
宗教者でこのような行動をする方は、今までありませんでした。
キリスト教からすれば、家庭連合は異端であって、論駁の対象です。元々キリスト教は、異端論駁し、正当性を争ってきました。ニケア公会議でのアタナシウス派とアリウス派の論争、宗教改革でのカトリックとプロテスタント分立、プロテスタントでの無教会派の分裂、現代での自然神学論争などです。異端は異教より憎いと言うそうで、キリスト教内でも互いに争っています。
しかし、中川牧師も岩本牧師も、教義は封印し、信教の自由を守るべきだと発言しています。逆説的ではありますが、このことを通して、宗教者間対話が可能となる一つの道が見えてきたと私は思います。もちろん、家庭連合が仲介するということではなく、家庭連合の事例をもとに、本来の宗教の価値を考え直す、という意味です。
神は大いなる存在だから、一人の人間が全て理解することは不可能です。人は生まれ育った環境も違うし、社会環境も違うので、大いなるものとの接点も、個人や民族によって異なるはずです。キリスト教に共感する人、仏教に共感する人、人によって、共感する宗教は違うわけです。
ここにこそ多様な宗教が存在する意味があるし、宗教が宗教を排斥することは有害だと思います。教義を越え、協力しながら、理想の個性、理想の社会に向かって、互いに切磋琢磨することは、可能ではないかと思います。そのために、家庭連合が捨て石、つまり解散となったとしても、それは生きることになります。
だから、家庭連合の信者としては、恐れるものはありません。解散されるか、されないか、どっちにころんでも、私たちは最も大切なものを失うことはありません。イエス・キリストが十字架の道を行っても復活されたがごとく、私たちは滅びません。
勇気をもって、今自分たちが行くべき道を、自信をもって進んでいけばよいと思っています。