人権第一主義について

人権が大切だとは、よく言われることです。これは現代社会では既に常識となっていて、民主主義の根幹となっているものです。

しかし、果たして人権とは、民主主義の最上位の価値観なのでしょうか。一人の宗教者として、私は更に上位概念が必要だと思っています。それは、人権は神によって与えられたものである、というものです。

人権が最上位のものだとすると、人権と人権が衝突した時に、矛盾が起きます。どちらも大切な人権なのだから、あちらを立てればこちらが立たず、ということになるわけです。

人類は、こういう場合に、いろいろな方法で人権の間での調整をすることを試みてきました。もともとは力で相手をねじ伏せる、という単純なルールでしたが、それでは双方に損失が大きいので、あらかじめルールを決めておき、話し合いを行い、仲裁者を立てる、などの方法を考えついたわけです。弁護士が胸につけている徽章は天秤をあしらったものだそうです。まさに人権が対立した時に、平衡を保つということなのでしょう。

しかし、それでも調整できない時には、結局力の勝負になり、最後は力が強い者が勝つというのが、今も昔も変わらない人間の社会ではないでしょうか。

だから、人権第一主義では、限界があると私は思っています。人権の上位の価値観が必要であって、それが人権は神から与えられたものだ、というものです。「神」という言葉を使わないのであれば、「天」でもよいし、「大いなる者」などでも、よいと思います。人間を超える者、この世界を造られた者、そのようなお方が人間に対して特別な権限を与え、世界を治める権利と力を与えて下さった、そういう考え方です。

西洋はキリスト教社会なので、そういう価値観が根付いています。生まれることを英語でbe bornと言いますが、これは受動形です。日本語でも、「生を受ける」などと表現します。自分の意思でこの地上に出てきた人間など、一人もいないからでしょう。生き物も英語だとcreatureと言いますね。createされたもの、つまり創造されたもの、という意味で、これも受動形です。

人権が神から与えたられたものであれば、与えたものの意思に従えば、人権の間の調整が可能だという結論になります。問題は、与えたものの意志がどういうものか、人間にはわからないことです。人間は完全な存在ではないからです。

そこで人間が歴史の中で学びとったのが、民主主義のルールである、少数意見の尊重と、多数決による決定です。

少数意見の尊重が必要な理由は、神の意志が誰に現れるか、わからないからです。2000年前、イエス・キリストが教えを述べた時、それは少数意見でした。イエス・キリストの言葉は、今では世界中で述べ伝えられていますが、当時はイエス・キリストただ一人が語ったものです。聖書に登場する多くの預言者も、少数意見です。もっと言えば、ほぼ全ての宗教が、最初は教祖が一人で語り始めたものです。神は一人を選んで、その語りたいことを伝えるのです。

そうすると、多数派の意見を集約しても、誰が神の意思を伝えられたのかはわかりません。だから、少数意見を尊重してみんなでその意見を聞き、共有すべきなのです。しかしそれでは意思決定できないから、最後は多数決のルールに従うことになります。これが人類が発明した、民主主義の仕組みです。

従って、少数意見を潰して、無理やり多数の力を押し通すのは、あるべき民主主義の考え方ではありません。それは、全体主義というものです。力ある者が勝つという、民主主義の形をまとった独裁主義です。ある一部の人権だけを取り上げて、他方の人権を無視して潰すのは、まさにこの全体主義に通じる考え方です。

家庭連合がおかれている状況は、まさにこの全体主義的な考え方です。家庭連合の主張、信者の声は、行政もメディアも取り上げず、全体の雰囲気に流されてしまう風潮は、とても危険だと思います。そこには、信者が信じる権利、献金を含めた宗教的な行為をする権利が、著しく毀損されています。

人権第一主義では、紛争を解決することはできません。神を中心とした価値観を共有することが大切であり、その価値観を醸成する役割は宗教にあります。私はそこにこそ宗教の社会的役割があると思うし、信教の自由の重要性があると思っています。