余はいかにしてキリスト信徒となりしか

明治・大正時代の宗教家、内村鑑三の代表作です。タイトルからして、難しい文語体なのかと思いましたが、原文は英語(How I Became a Christian)で、それを口語訳したものが本書なので、とても読みやすい本でした。内村鑑三には日記を書く習慣があり、その日記を辿りながら、キリスト教の信仰を深めていく過程を綴っています。

内村鑑三は、北海道大学の前身である札幌農学校に入学し、「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名なクラーク博士の影響を受けて、キリスト教徒となります。

それまで多神教のために、あちらの神社、こちらの神社と、それぞれ拝んでいましたが、一神教を信じることで、とても解放感を感じたというのが、キリスト信徒となった最初の動機でした。16歳の頃です。

その後内村は、北海道開拓使に就職し、結婚しますが、半年後に離婚します。その後、信仰の原点を求めてアメリカに私費留学しますが、そこで見たものは、キリスト教精神に反するような人種差別、金に対する執着心などでした。

アメリカでは知的障碍児擁護学校などに勤務した後、アマスト大学に入学し、シーリー博士と出会って、宗教的な回心を体験します。それが26歳の時です。

その時の日記を下記します。

1886年3月8日
私の生涯で非常に重要な日。キリストの贖罪の力が、今日ほど明らかにあらわれた日はなかった。これまで私の心をうちのめしてきたあらゆる困難の解決は、神の子の十字架のうちにある。キリストが、全ての私の負い目を贖って、堕落前の原人(first man)の純粋と無垢に私を戻すことができるのだ。今や私は神の子であり、私のなすべきつとめはイエスを信じることである。イエスのお蔭で神は私の望むものをなんでも与えてくれるであろう。神はその栄光のために私を用い、最後には天国で私を救うだろう。

これを文章だけで読むと、さらりと読み流してしまいそうですが、内村がいろいろな挫折を経てたどり着いた宗教的な回心は、文章では書ききれるものではないでしょう。しかし、おそらく内村は、ある種の霊的な感動を受けて、溢れるような思いで、この言葉を書き綴ったのだと思います。それは、宗教者に共通する、その後における信仰の原点ともいえる体験だったのだと思います。

本書は、内村が34歳の時に書いた本です。内村は70歳で亡くなるまで、キリスト教の思想的な啓蒙に努め、多くの人々がその影響を受けました。親友の新渡戸稲造は国際連盟事務次長、東京女子大学学長を務め、新島襄は同志社大学を設立しました。

また、内村は共産主義に反対していました。それは、一階級が他階級に対する敵愾心を煽るものであって、キリスト教精神とは異なるものだったからです。その考え方は、弟子であり、東大総長を務めた南原繁や矢内原忠雄に受け継がれます。

特筆すべきは、内村鑑三が1918年に始めた、再臨運動です。そのきっかけとなったのは、愛する娘ルツ子の死であったと言います。それは、黙示録の最後の言葉、「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22章20節)に由来するものであったと思います。1920年に、文鮮明師が再臨主として誕生したことを考えると、家庭連合の信者としては内村の言葉は感慨深いものがあります。

キリスト教を背景に、社会に多大な影響の与えた内村鑑三の生涯は、注目するべきだと思います。