沈黙(3)

遠藤周作の「沈黙」を読んで、さらに次のように感じました。

神と人間は、親子の関係だと言います。拷問を受けて、主の名のもとに死んでいくキリスト教徒たちは、パライソ(天国)に行って、神様と一緒に暮らすことを信じて、その苦痛を耐えました。

もし、神が親だとしたら、子どもが苦痛に呻きながら死んでいくのを目の前にしたら、どのように思うのでしょうか。何をおいても、それを救いたいと思うに違いません。それでも、手を出せない事情があり、ただ見過ごすほかなかったとしたら、それは何と可哀そうな親でしょうか。

私にも子供がいて、子どもたちが小さいころは、何が幸せと言って、子どもにご飯を食べさせてあげられることが、とても幸せなことだと、と時々思いました。もし戦争中などで子どもにあげるご飯がなくて、子どもが餓えて泣いていたら、とても惨めな気持ちになったでしょう。

ましてや万能の王と言われる神が、ご自身の名のもとに餓え、拷問を受けるのを見て、何もできないどころか、声をかけてあげることもできないとしたら、それは想像を絶する心情であったと思います。血の涙が出るような思いだったのではないでしょうか。

遠藤周作の「沈黙」の問題提起は、なぜ神は迫害を受ける信徒に声をかけなかったのか、ということでした。声をかけないのではなく、かけられなかったのだとしたら、それは一体どのような事情だったのでしょう。

人間の罪とは、神のことがわからなくなったことかもしれません。本来人間は、神と自由に交流ができていたはずなのに、その声を聞く能力を失ってしまいました。神が、人間に語ろうとしても、その声は人間に届きません。それを聞くことができるのは、預言者など一部の者に限られてしまいました。それが人間の罪の本質だとしたら、どうでしょう。

そういうことを考えながらこの本を読むと、人間の罪と、それに対する神の救いに対する心情に、少しだけ触れることができるような気がしました。