沈黙(2)

イエス・キリストは、十字架上で、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と言われました。これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。(マタイ福音書第27章46節)

遠藤周作の「沈黙」にも、この言葉は登場します。

これは、十字架上のイエス・キリストが、神に対して、恨みを述べたものでしょうか?人類の救いのために地上に降りてきたのに、どうして私をこのような目にあわせるのかという、無念の思いを吐露したものでしょうか。

遠藤周作は、「イエスの生涯」において、この言葉は詩編22篇の言葉であると書いています。

わが神、わが神
なにゆえにわたしを捨てられるのですか。
なにゆえに遠く離れて私を助けず、
私の嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、私が昼よばわっても、
あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。(詩編22篇第1~2節)

これを見ると、イエスは命の絶頂を迎える中で、聖句の嘆きの言葉を取り出したようにも見えます。
しかし、詩編22篇は、このように続くのです。

イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。
主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、
またこれにみ顔を隠すことなく、
その叫ぶ時に聞かれたからである。(詩編22篇第23~24節)

神は決して、苦しむものたちの声を無視するのではなく、むしろ耳を傾けているというわけです。
イエス・キリストは、神に対して恨みを述べたのではなく、むしろ神が共にあることを記すこの聖句を唱えることで、自らを勇気づけられたのでしょう。
神は沈黙を貫いているけれども、決して見棄てることはない、という信仰の強さを、改めて示されたのだと思います。

迫害の中にあっても、それを自らの内面に昇華させることができるのが、信仰の強さなのかもしれません。