沈黙

遠藤周作の代表作です。
江戸時代の初め、幕府によりキリシタン禁止令が出されると、各地でキリスト教徒に対する弾圧が始まりました。特に島原の乱以降、長崎においてのキリスト教徒に対する拷問は凄まじく、キリスト教徒を炙り出すために、イエス・キリストの肖像画を踏ませる、踏み絵が行われました。

かつて長崎地区で活躍したフェレイラ司祭の消息が途絶え、彼を尊敬していたロドリゴ司祭他2名が、長崎の地に密入国します。ロドリゴ司祭は信仰に燃え、隠れ信徒たちを励ましますが、程なく捕まり、自分はどのような拷問がかけられても、決して棄教しないと決意を固めます。
しかし実際に拷問にかけられたのは信徒たちで、司教が棄教しない限り信徒たちは拷問を受け続けると言われ、ついにロドリゴ司祭は踏み絵を踏むのです。

キリスト教徒に対する拷問の様子の描写は、あまりにも生々しく、悲惨です。しかし、この小説のテーマは、江戸時代のキリスト教迫害と言うよりは、タイトルにあるように、神の沈黙です。

なぜ、神は信徒がここまでつらい目に遭っているのに、何も言わないのか。なぜ、神が愛というなら、信徒を救わないのか。信徒たちは、それでも神を信じているのに、なぜ神は応えないのか。どうして黙ったままなのか。なぜ…
ついにロドリゴ司祭は、イエス・キリストの十字架上での「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(なんぞ、我を見棄て給うや)、という叫びを思い出します。神は本当にいるのか、と自問します。

神の沈黙に対して、著者は明確な答えを書いていません。ただ、ロドリゴ司祭は、信徒たちのために自分を踏んでも構わないと言うイエス・キリストの声を聞いて、その愛を感じて踏み絵を踏んだとしています。

これはとても深いテーマだと思います。
「こんな悲惨な世界を作ったのなら神などいない!」と言って、神を否定したのが、カール・マルクスが主張した共産主義です。一方で、「神が沈黙するのは、背後に何か神のご事情がある」として、信仰を続けたのが、キリスト教の歴史であると思います。

著者は、ファレイラ司祭をして、こう語らしめます。「日本人は人間と全く隔絶した神を考える能力を持っていな。日本人は人間を超えた存在を考える能力を持っていない。日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
これは、カトリック教徒としての、著者の思いを吐露したものかもしれません。

キリスト教の歴史は、単に迫害を強い信仰で押しのけて今日の発展をもたらした、と言うような単純なものではなく、何度も信仰の本質を問い続けながら、築き上げられたものだと思います。

家庭連合は、現在国家的な迫害を受けていますが、一人一人が信仰の原点に立ち返る機会を、天に与えられているとも言えます。
いろいろと考えさせられる本でした。