解散命令と「公共の福祉」

宗教団体の解散命令の要件として、「公共の福祉」をそのまま当てはめることはできません。宗教法人法上の要件は、「法令に違反」して、「著しく公共の福祉を害する」と「明らかに認められる行為をしたこと」(宗教法人法第81条第1項1号)であって、これは極めて厳しい要件なのです。

「公共の福祉」は、基本的人権を制約する際に用いられるものですが、その適用には歴史上いくつかの変遷を経てきました。

当初、「公共の福祉」は、基本的人権の枠外にあり、公共の福祉のためであれば、基本的人権は常に制約しうる、という考え方がありました。(一元的外在制約説)
日本国憲法の第12条、第13条には、次のように書かれています。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
これを読むと、「公共の福祉」を理由とすれば、あらゆる国民の権利は制約できるようにも読めます。
しかしこれでは、精神的自由が常に制約できることとなり、基本的人権の尊重という、日本国憲法の理念が損なわれます。明治時代の大日本帝国憲法では、信教の自由に関しては、次のように定められていました。
第28条 日本臣民ハ安寧󠄀秩序ヲ妨ケス及󠄁臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於󠄁テ信敎ノ自由ヲ有ス
つまり、公共の福祉を、基本的人権の外枠にあるオールマイティのものとすると、大日本帝国憲法と変わらないものとなってしまうのです。

これに対し、基本的人権は、「公共の福祉」で制約しうるものと、制約できないものがあり、制約できるのは日本国憲法の条文で明記された、職業選択の自由(第22条)と財産権(第29条)及び社会権(第25-28条)に限定されるという考え方が示されました。(内在・外在二元的制約説)
これだと、精神的自由が「公共の福祉」という名のもとに侵害されることを防ぐことができます。
しかしこの場合においても、基本的人権同士が対立した場合に、不具合が生じます。表現の自由があるからと言って、他人の尊厳を傷つけることは許されないからです。

そして、現在の通説は、「公共の福祉」は、衝突する人権同士の調節機能としてのみ働くものだと解されています。(一元的内在制約説)
信教の自由について、日本国憲法では、次のように書かれています。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
ここには、「公共の福祉」という制約事項は設けられておらず、何人に対しても保証されるとされています。精神の事由に関する基本的人権の制約はこれが出発点であって、「公共の福祉」によって制約する場合には、より厳しい条件である、「より制限的でない他の選びうる手段の基準」(LRA = Less Restrictive Alternative)」がないことが求められます。

それでは、宗教法人法において、解散命令の要件として、「公共の福祉」に関して、どのように定められているのでしょう。それが、冒頭に書いた、「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。」(宗教法人法第81条第1項1号)なのです。単なる「公共の福祉」では足りません。「法令に違反して」「著しく」「明らかに認められる」という3条件が揃わなければなりません。

これがいかに厳しい条件であるかということを、家庭連合に対しては反対の意見を持つ、元検事の郷原信朗氏が次のように述べています。
「解散って宗教法人法で非常に重くハードル化されているわけですよ。要件を改めて確認すると、「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると、明らかに認められる」と、通常はなかなかこの要件には合致しない、本当に極端な事例じゃないと解散命令は出せない、裁判所は認めないという条文ですよ。」

(18分30秒頃から)

「公共の福祉」は基本的人権を制約するための法理であり、万能ではありません。特に精神的自由に対しては、安易に適用すると、国家による統制を助長することになりかねません。そのため、宗教法人の解散命令の要件においても、厳しい条件が課されているのです。