脱会説得による悲劇(7) その時警察はどう動いたか④ 「監禁を2度も黙認した警察」M・Mさんの体験

家庭連合の信者に対する事例紹介動画の第7回です。

【偏向報道にあおられ、両親が猛反対】
1987年6月、母が、新聞の批判記事を見せ「帰りが遅いけどこれに入ってるんじゃないの?」と聞きました。「怒らないから言ってごらん」と言うので、「そうです」と答えると、母は「お父さんが知ったらただじゃおかないわよ」と言いました。しばらくは黙認状態が続きました。

1989年1月、私が「家庭連合の活動に専念したい」と伝えると、両親は猛反対しました。
3月、両親に教会に来てもらい、教会長が家庭連合の説明をしました。父は「娘を教会に預けましょう」と言い、私は家庭連合の活動に携われるようになりました。

1992年6月、元オリンピック新体操選手Yさんの家庭連合(旧統一教会)入信スクープでマスコミ報道が過熱し、元々宗教に批判的だった両親は、偏向報道に煽られ、家庭連合を目の敵にするようになりました。
家庭連合の信者に対する拉致監禁事件が全国で多発しており、私を家庭連合に導いた人も拉致監禁被害に遭い(その後、教会にもどってきました)、拉致監禁は人ごとと思えませんでした。
父から頻繁に電話がかかるようになり、教会の人と相談して9月10日、家に帰りました。私は両親を伝道しようと思いましたが、父は酒を飲んでわめき、話を聞こうとはしません。母に家庭連合の書籍を紹介し、講演会にも誘いましたが、無視されたのです。
実は、私は統一原理と出会うまで、両親を尊敬できないところがありました。「こんな家にはいたくない」と思ったほどでしたが、家庭連合と出会ってからは、親を尊敬しなければならないと思って努力していたのです。

1993年2月初め、母は市民相談室で、弁護士から反対牧師を紹介されました。このことは監禁中、母が話したことです。父は家庭連合の人と2月下旬に会う約束をしました。それは、私を油断させる為の罠だったのです。

【「弟が交通事故」、だまされて監禁場所へ】
2月24日、私は午後8時に帰宅しました。電話が鳴り、電話に出た母は「次男が○○警察の近くで交通事故に遭い、近くの病院に運ばれた」と言いました。父は、「車で行く方が早い」と私に地図を渡し、場所を探すように言いました。
〇〇警察署の前に〇〇病院があり、私はこの病院だと思いました。父が運転し、母は助手席に、後ろの座席に長男と私が乗りました。道は複雑なのに、母が「そこを右、左」と指示する姿に不思議に思いました。
母が下を向いた時、父は「大丈夫だ、心配するな」と慰め、道路の看板を見ているように言いました。この時、母は拉致監禁がうまくいくかどうかを心配していたのです。
〇〇病院の看板が見えると、あるマンションの前に停車しました。車を降りて病院に急ごうとすると、父はマンションに向かって私を押しました。長男も私の手を掴み、一緒に背中を押すのです。母も後ろにおり、私が「ここは病院じゃないでしょ」と言うと、父は「ここなんだ」と言ったので、一瞬「病院の裏口か?」と勘違いしました。マンション二階まで無理やり押されたとき、監禁に気づき、私は手すりに必死につかまりました。
手を振りほどかれ、私は二階、三階のドアを叩き、チャイムを鳴らして助けを求めましたが、口を抑えられ、靴を履いたまま四階の部屋に押し込まれました。私はショックでした。部屋には交通事故にあったはずの弟がいたのです。

【牧師指導のもの、監禁マンションを準備】
私は1993年2月24日から6月6日まで103日間、監禁されました。
玄関ドアのチェーンには南京錠がつけられ、ベランダの戸もあかないように鍵がつけてありました。トイレは鍵がかからないようになっており、父は「籠城できないようにした」と言いました。
私は職場が気になり、父に「仕事がある」と抗議すると、父は「会社に電話して、しばらく病気で休むと言った」と答えました。私は勝手なことをする家族に怒りが沸きました。

【強制改宗で信者獲得を狙う牧師】
それまでの約六年間、母に家庭でんごうの書籍を紹介しても、読まずに拒み続けた母でした。ところが、「習ってきたことお母さんに聞かせて。どんなことを学んできたの」と迫ってきたのです。牧師の指導で、そう言っているのがわかりました。
その夜玄関を見に行くと、母はすぐに起きて、父と弟の2人も目を覚ましました。私は、ここから解放されるには「偽装脱会しかない」と思いました。しかし「すぐに見破られる」との不安に襲われて、結局「強行脱出か、親を諦めさせるしかない」と思ったのです。
数日後、日本ホーリネス教団・大阪栄光キリスト教会の松沢力男牧師と元信者が来ました。私はこの不当な拉致監禁に抗議しました。監禁中、唯一の希望だったのは、松沢牧師が「統一教会が出した本は何でも読ませたらいい。そうしたら統一教会の間違いがわかる」と言ったことでした。
松沢牧師は脱会させた信者を、自分の教会の信者にしていました。私は弟に、家にある家庭連合の出版物を持って来るように頼み、布団をかぶってそれを書き写しながら勉強しました。

【父の暴力に”死の恐怖”】
元信者が次々やって来ました。元信者は監禁を“保護”と呼び、脱会後は反対牧師の教会でリハビリをすると言うのです。私と家庭連合との信頼関係を壊そうと、家庭連合批判をしてきました。
松沢牧師は1984年に世界日報元幹部の副島嘉和氏が暴漢に襲われた事件は「統一教会員がやった」と、犯人が特定されてもいないのに決めつけ、元信者Tさんは「圓和道の団体は嫁協会のテロ組織だ」と、そういう事実はないのに言いました。
親の不安を煽る話ばかりをし、私が反論すると牧師は怒鳴り散らすのです。松沢牧師が帰ると、父はお酒を飲み、「統一教会をやめないなら、精神科病院に入れてやる。お前に死んでもらうかもしれない」と脅し暴力をふるいました。まるで何かに取りつかれているかのようでした。父から毎晩、殴られました。
私は“殺される”という恐怖に駆られ、ツナ缶のふたを隠し持ち、もしも自分の身を守るのにこの方法しかないなら、ツナ缶のふたで自分の手首を切るつもりでした。
そんな中で夢を見ました。修練会の班長が「『本性で暮らす』の何ページ何行目に書いてあるでしょう!」と言ったのです。翌日元信者に頼んでその書籍を持って来てもらい、夢で教えられた箇所を見ると、批判されてきた内容の答えが載っていたのです。また夢で文師が弟子を従えて歩く姿を見て、とても励まされました。

【監禁を黙認する警察に失望】
20日目頃セールスの人がブザーを押しました。私は玄関に走り「助けて!」とドアを叩きました。やがて警察官がきた時、私は弟に押さえつけられ、母は外で「親子問題です」と説明すると、警察官は帰ってしまったのです。
父は「わざと警察の近くでやった。そうすればほとんどの人が脱会するそうだ」と言いました。牧師らの指導で、警察署の近くで監禁するのは、警察も助けてくれず、信者が絶望するという心理的効果を狙ったのことだったのです。
監禁30日目頃、松沢牧師の顔色が悪くなりました。ある日、元信者だけで来た時、私は「聖書批評学」による聖書の矛盾点について質問しました。元信者は福音派の松沢牧師から「聖書は一字一句間違いない」と教えられており、その質問に戸惑っていました。

監禁35日目頃、松沢牧師が胆石の手術で入院しました。私は「これで解放される」と期待しました。ところが元信者Tさんは、キリスト教神戸真教会の高澤守牧師を連れてきたのです。
高澤牧師は自動車免許の停止期間中で、大きなバッグに家庭連合批判の資料を詰め込み、電車でやってきました。高澤牧師は統一原理がよく分かっていないのに、「自分が反対牧師を21年やってきた。完成級の反対牧師だ」と統一原理の要望をやたらと使いたがる牧師でした。
「去年は24人、おととしは21人を脱会させた。今、同時に5人やっている」と監禁場所を掛け持ちし、「昨日は東京で、弁護士集会に参加した」と自慢しました。高澤牧師は文師の誹謗中傷をし、私が反論すると大越で怒鳴り散らしました。

監禁43日目頃、玄関ドアの隙間から助けを求める手紙を出しました。無謀な賭けでしたが、階段を通った人が手紙を読むのを期待したのです。ところが、それが父に見つかり、さんざん殴られました。父は手紙を高澤牧師に見せ、牧師は「まだ逃げようと思っているのか」と怒鳴りました。

それから3日後、住所の確認のために警察官が部屋を訪問してきました。その時、母と2人きりだったため、私は警察官に「監禁されています」と騒ぎました。警察官は「落ち着いてください」と言い、部屋に入って話を聞いてくれました。
私は「親子の話し合い」と言ってるけれど、実際には牧師や元信者が来て脱会説得をしていること。長期間、一歩も外に出られないことを訴えました。
警察官は「家族だけで話し合うのが一番です」と言い、私が連絡を取りたい住所と電話番号(家庭連合の住所と電話番号)を聞き、母から父の連絡先を聞いた上で、「上司と相談します」と言って帰りました。私は、監禁から解放されると期待しました。
ところが、連絡は家庭連合には行かず、父だけに行き、近くの警察署に呼ばれた父は一方的に事情を話し、警察は「宗教問題に口を挟みません」と言ったとのことでした。
密室で父に毎日暴力を振るわれ、事件が起きてもおかしくないのに、二度も警察官が助けてくれず、私はとても失望しました。

【親の不安をあおり、監禁を継続させる牧師】
私が騒いだため、マンションの大家が来て「出て行ってくれ」と言いました。ところが、父に言いくるめられたのです。誰が来ても監禁から解放されず、私は“絶望感”から自暴自棄になり、極限状態に陥りました。

監禁55日目が過ぎると、日中、母と2人になるようになりました。私は、母を暴力的に押し倒し、出て行こうと思いました。普通なら思い浮かばない考えが、自然と浮かぶような異常な環境でした。私は神様に必死に祈りました。
高澤牧師が帰ったあと、たまらなくなって壁を叩いて泣きながら、「文先生はメシアだ」と叫び続けました。壁を叩くうちに右手がグローブのように青く腫れ上がり、力が入らなくなりました。内心「これで母に暴力を振るうことができなくなってよかった」と思いました。

監禁80日目頃、脱会しない私に父は苛立ち、母が買い物に出ている間、父から殴られ続けました。私は後ろ向きに倒れ、ベランダのワイヤー入りのガラスがひびわれました。髪の毛を引っ張られ、蹴られ続けました。父は「あと2週間で辞めてやる。詫び状を書け!」といい、私は詫び状を書かされました。
買い物から帰った母が、父に「それならあんたが牧師に連絡しなよ」と言いました。翌日父は、松沢牧師に連絡しました。ところが松沢僕力説得され、父は約束を撤回したのです。
マンションの外には元信者Tさんの父も来ており、私の父に「諦めたらいけない」と説得したのです。また、やってきた高澤牧師は、「逃げても何度でも監禁をしてやる」と言いました。私は身も心もボロボロでした。

監禁90日目ごろ、高澤牧師の奥さんが手術のために入院し、高澤牧師も来なくなりました。すると元信者Tさんは、尾島敦義氏を連れてきました。尾島氏は家庭連合の書籍の“あら探し”ばかりしている人でした。
西日本福音ルーテル教会・青谷教会の信徒ですが、自分の教会を「クルーテル教会」と言うような人でした。そして、「統一教会問題は、既成教会が問題です」というのです。
その理由を尋ねると、尾島氏は「キリスト教会は統一教会の人が訪ねてきても、異端視してシャットアウトする。牧師だからといって心が広いわけではない」と言い、そして「人がたくさん伝道される統一教会が羨ましい」と言いました。どういう動機からそんなことを言うのか分かりませんでしたが、とにかく屁理屈ばかり言う人でした。
私が小島氏に「文師にあわれたことはありますか?」と尋ねると、「ない」と答えました。高澤牧師にも同じ質問をしましたが、答えは同じでした。一度も会ったことのない人が、なぜ信者も知らないことを語り、批判するのでしょうか。私は偽善者だと思いました。

監禁100日目ごろ。私は新約聖書を読む中で、イエス様の歩みが文師の路程と重なっていると思えました。高澤牧師にそのことを伝えると、「同じことを言ってるやつがいる」と言って「統一教会の正当性」という本を見せました。

【監禁103日目、隙を見て脱出】
監禁102日目の深夜、父がお酒を飲んで帰ってきました。お酒の匂いとニンニクの匂いが部屋に充満し、一晩中眠れませんでした。翌朝私は早朝5時にお祈りしようと換気扇を回しました。5時40分ごろ、母は「Mが可哀想でしょ」と父お叱り、牛乳を買いに行きました。戻った母は掃除をし、またすぐに出かけるつもりだったのでしょう。ドアの内鍵だけ締め、南京錠を取り付けるチェーンを外したまま、冷蔵庫を開けたり閉めたりしていました。
私は寝たふりをし、母がトイレに入らないか見ていました。するとトイレに入ったのです。そして、父を見ると眠っていました。私は急いで玄関に行き、裸足のまま猛ダッシュで階段を駆け下りました。長く歩いていなかったため、足が萎えているのがわかりました。
右足をひねり、痛みをこらえながら道路に飛び出し50mほど走って路地に隠れました。すると犬が吠え、鳴き声が響き渡りました。「まずい!」と思い、何とか塀を乗り越え、あるマンションの一階廊下に出ました。
片っ端からチャイムを鳴らすと、真ん中の部屋から女性が出てきました。「電話を貸してください」というと、中から若い男の人が「いいですよ」と言ってくれ、中に入りました。
監禁の事情を話すと「家庭連合の人以外は絶対ドアを開けない」と言ってくださり、外から見えないようカーテンを閉めてくださいました。その家の方は本当に良い人でした。優しくされ、それまでの苦しかった環境が嘘のように思われ神様の愛を感じました。家庭連合の人が迎えに来て、私はやっと自由になれたのです。

【“親子問題“を盾に拉致監禁を正当化】
監禁脱出後、私は閉所恐怖症になりました。悪夢にうなされ、監禁の恐怖はなかなか消えませんでした。拉致監禁は家族が行いましたが、緻密な計画に基づいており、牧師や元信者の指導によって行われていたものでした。
家庭連合批判を聞かされた両親は、「それが事実かどうか」裏付けもとらず、拉致監禁を行っていたのです。反対派は拉致監禁を「親子問題」にすり替え、“法の網”をうまくすり抜け、公然と監禁による脱会説得を行っています。
家庭連合の信仰を捨てるまで、執拗に拉致監禁が実行される世の中では、とても恐ろしく、安心して暮らすことができません。このような体験は私だけではありません。数多くの家庭連合信者が拉致監禁被害を受けています。拉致監禁が恐ろしい行為です。拉致監禁の被害が一刻も早く日本からなくなるように切望します。