脱会説得による悲劇(9) 反対派の悪辣な手法 「公認教会を襲撃し、信者を連れ去った反対派の悪辣な手口」T・Hさんの体験
家庭連合の信者に対する事例紹介動画の第8回です。
私は、反対派から調査された両親らによって二度拉致監禁されました。1度目は83日間。2度目は約一年三カ月間、監禁されました。
私は1987年4月から大阪の保育園に勤務していました。保育園の教育方針に馴染めずに悩んでいた時家庭連合(旧統一教会)と出会い「統一原理」を学びました。私は悩みが解決され、希望を見出したのです。私は文鮮明師こそ再臨主だと思い、家庭連合に入会したのです。
1990年3月、保育園を退職。実家に帰りました。しばらく家庭連合に通えずにいましたが、幼稚園の教員採用試験に合格し、1991年4月から幼稚園の教諭として勤務しました。
1992年夏、家庭連合の批判報道が盛んになり、マスコミ報道が事実とかけ離れていると感じた私は「偏向報道だ」と思い、再び家庭連合(旧統一教会)に通い始めました。「統一原理」を学び直し、その教えの深さに感動しました。
1994年2月、私は家庭連合の信仰を持っていることを家族に伝えたところ、猛反対されました。父は「目を覚ませ!」と頭を殴り、批判書を十冊ほど買ってこれを読めと渡しました。批判者を読みましたが、事実と違っており、私は家庭連合に通い続けたのです。
【1回目の監禁】
1994年6月3日、幼稚園の仕事で遅くなりました。母から「食事をするから帰っておいで」と連絡があり帰宅しました。父が運転し、助手席に妹。後部座席に弟と母と私が乗りました。
いつもと違う道を走るので、不思議に思いました。30分を過ぎても車は店に入らず、監禁に気付きました。マンションに着くと私は「助けてー!」と叫びました。仰向けのまま担がれてマンション三階に監禁されたのです。玄関ドアの防犯チェーンに南京錠がつけられ、ベランダの戸は動かないよう固定してありました。
6月5日、佐藤勝徳牧師が来ました。牧師はほぼ毎日来て統一教会批判、文鮮明師の誹謗中傷をしました。私が拒絶しても一方的に話すのです。牧師が帰ると、私は壁を叩き「出せー!」と泣き叫んで玄関に走り、取り押さえられるのです。「これは監禁だ!」と抗議すると、父は「保護だ!」と言い返しました。
8月半ば、牧師に「イエス様は本当に雲に乗ってくるのですか?」「イエス様を信じた人は空中に引き上げられるのですか?」と質問すると、聖書文字通り信じる牧師は「そうです」と答えるのです。私は牧師の話を聞きたいと思いませんでした。
8月24日、監禁83日目。朝5時半ごろ父が外出しました。いつもは父の外出後、母はすぐドアを施錠するのに、この日、母は起きませんでした。玄関を見るとチェーンが開いたままでした。私は「今しかない!」と脱出したのです。これが一回目の拉致監禁でした。
【2回目の監禁 公認教会の襲撃】
監禁脱出後、私は両親に「信仰を止める意志はない」と手紙で伝え、再度の拉致監禁を恐れて、幼稚園の教諭を辞めざるをえませんでした。
居場所を教えずにいたところ、1995年11月、父から家庭連合本部に電話があり、私は実家に電話しました。両親は「二度と監禁はしない」といい、1997年3月上旬、母が「拉致監禁しない」と再び約束し、私は母を信じてみようと思いました。
3月15日頃、母が地方の公認教会に来て、この後、2回教会で母と会いました。
6月7日、母と3度目の約束をしました。午後2時半ごろ、教会で母と話してると、教会の人が「弟さんが来ていますよ」と言いました。
弟が廊下におり、目と目が合いました。弟はすごいなくなると、「イヤーッ!」「ウワー!」という喚声が聞こえて近づいてきたのです。この時、約20名が、スタンガン(高電圧を相手に通電することで麻痺させて動けない宇する器具)、鉄パイプ、チェーン等の武器を携行し、家庭連合の公認教会を襲撃したのです。
襲撃犯は、教会の玄関ドアのガラスを壊して侵入。居合わせた教会員4名に暴行を加え、母と面談中だった私を拉致しました。私は担ぎ上げられ、二階玄関から階段を下ろされ、ワゴン車に押し込まれました。
車が走り出すと、父は運転手に「そこを右、左」と指示しました。30分程して携帯電話が鳴り、父は「高澤先生、大丈夫でした」と言いました。その後、私は新大阪の二つのマンションに、計一年三カ月間監禁されたのです。
【キリスト教神戸真教会の高澤守牧師】
私は監禁直後から胃が痛み始めました。私は両親に「嘘つき!監禁しないと言ったのに」「教会にあんなこと(襲撃)して犯罪でしょ!」と抗議しました。
玄関ドアの防犯チェーンに南京錠が付けられ、ベランダの窓はハンドル部分に針金が巻き付けられ、開かないようになっていました。
私はショックで寝込みました。キリスト教神戸真教会の高澤守牧師がやってきました。私はタオルケットを頭からかぶっていました。
牧師は私に「起きろい!」といい、敷布団の端を掴んで思いっきり引き揚げました。私は床に転がり落ち、恐怖でした。牧師は、私の両腕を背後から掴んで床の上に座らせるのです。
「やい、俺を知ってるか?俺は三年前からあんたを知っている」といい、ドスの効いた低い声で「オーイ」多いと言って私の背中を叩き、対話を強要しました。
震える私に「6月のナメクジみたいな格好しやがってクソバカ」「殺虫剤で死にかかっているゴキブリ」「屋根裏のネズミ」などと言い侮辱しました。
7月のある日、夜中に弟が来ました。玄関で両親とひそひそと話し、朝早く、父が出かけました。父が弟に「車をどこに停めた?」と聞いたので、父は車を運転してどこかに行こうとしているのがわかりました。
母と弟は玄関で何かを話していました。その様子にただならぬものを感じました。母は「お父さんは用事でT市に行った」と言いました。
私は公認教会が襲撃された事件が警察沙汰にならないはずはないと思っていたため、遂に警察が動いたと思い、父が呼び出されたら、次は私が呼び出され、監禁から解放されると期待しました。
午前中、弟の携帯に父から電話があり、弟の応答から父が警察で事情を聞かれていると思いました。
昼過ぎ電話が入り、携帯電話から「今まだ警察だ。大丈夫だった」との父の明るい声が漏れ聞こえました。母は「あーよかった」と言いました。私はあれほどの事件を起こしてなぜ許されるのかと憤慨しました。
夕方、帰った父は「お姉ちゃん帰ったよ」と弾んだ声で言いました。その父の態度に、私は腹が立ちました。私は、世の中でこんなことがまかり通っていいのかと憤ったのです。
【膀胱炎】
7月下旬、膀胱炎にかかりました。下腹部や足の付け根のリンパ線が痛く、腰(腎臓部分)も痛くなりました。胃痛もひどく、監禁場所に用意していた置き薬を飲みましたが、効果はありません。私は布団を敷いて休みました。
膀胱炎を母に訴えると、母は高澤牧師に伝えました。高澤牧師が来て「病院なんか絶対に行かせねえ!連れて行ったらあんたは絶対逃げる」と言いました。私は歩くのも座るのも辛く、寝ても腰が痛くて眠れませんでした。
母は薬局で膀胱炎の薬を買ってきました。注意書きに10日ほどしか飲んではいけないとあり、全部飲んでも直らず、母は別の薬を買ってきました。それも10日ほどしか続けて飲めないとあり、それでも治らず、母はさらに別の薬を買ってきたのです。
8月中旬、私は脱退を表明しない限り監禁から解放されないと思いました。私は祝福記念日の8月25日を待ち、牧師との対話を拒み続けました。8月25日が過ぎ、私は対話に応じることにしました。
8月26日、牧師は医師免許を持つ名古屋の婦人を連れてきました。婦人は私の下腹部や足の付け根を触り、「膀胱炎です。リンパ腺が腫れています」と診察しました。
その婦人は文鮮明師の批判をしました。医師免許を持つ者が診察し、膀胱炎だと知った以上、不当な関係をやめさせるべきでしょう。ところが婦人は逆に監禁の継続を助長し、病人の心をかきむしるのです。
【偽装脱会】
私は前日「偽装脱会」を決意したのに、口をついて出てくるのは拉致監禁への抗議ばかりで、偽装脱会どころではありませんでした。私が話し始めたからか、高澤牧師は頻繁に来るようになりました。
牧師は一回目の監禁について尋ねました。父が監禁を「保護」と言ったら、牧師は「お父さん、保護じゃねえ。これは監禁だ」と言いました。反対は「保護」と表現するのに「監禁」と言ったので驚きました。
牧師は鍵束を見せ「今マンションに7人監禁している」と言い、鍵を「1,2,3,4,5…」と数えました。自分の実力を自慢しているかのようでした。75歳のおばあさん、25歳、30代の信者を監禁していると言いました。
9月2日頃、高澤牧師は「明日引っ越す。よろしく頼むで、逃げるなよ」と言ってきました。翌日、私は新大阪の2つ目のマンションに監禁されました。このマンションも玄関の防犯チェーンに南京錠が付けられ、開かないようになっていました。ベランダの戸は針金が巻き付けられ、開かないようになっていました。
高澤牧師は今まで以上に批判してきました。「原理講論」を読み、独自の解釈で批判するのです。ねじ曲がった批判をし、それを押し付けて脱会を迫るのです。
11月頃、高澤牧師は合同祝福結婚式に参加した人が持つ祝福指輪について話しました。牧師は、信者が脱会すると指輪を外し、提供するというのです。
あるとき、脱退を表明した信者が、指輪を所持していたので「脱会して指輪を持っているのはおかしい」と言って提供させたと話しました。そうしないと脱会を信じないのが分かりました。
新年(1998年)を迎えても監禁は続きました。私は深刻でした。監禁されるまで、結婚相手と週一度は連絡していました。監禁後、連絡できず、相手が心配していると思ったからです。監禁は本人だけでなく、結婚相手も深く傷つけるのです。
監禁部屋はマンションの八階。逃げるのは困難です。私は生まれつき筋力が弱く、学校の運動会でいつも最下位でした。監禁で更に体力衰え、強行脱出は不可能でした。偽装脱退するしかないのです。
2月頃、元信者で鈴木麻里子という女性が来ました。彼女は高澤牧師のキリスト教神戸真教会の鈴木副牧師の夫人でした。脱会屋の宮村峻氏に脱会させられ、その後、鈴木氏と結婚したようです。
彼女は統一原理を間違って理解していました。彼女は統一原理をよく理解しないまま、宮村峻に説得され、脱会したことが分かりました。
【パニック】
私は公認教会を襲撃した悪辣な事件を思い出し、怒りがこみ上げてパニックになりました。わたしは「家庭連合の人にお世話になった。恩を仇で返した。統一教会を非難する以前の問題だ!」と泣きわめいたのです。パニックになった私を見て、母も泣き出しました。高澤牧師は「落ち着け!落ち着け!」といい、両親は私に「教会に謝りに行く」と言いました。
ところが牧師は「謝りに行く必要はない」と言い放ったのです。牧師は翌日も来ました。私は再びパニックになり七転八倒しました。自分が立っているのか座っているのかさえも分からない精神状態で泣き続けたのです。
私は深刻でした。偽装脱退しかないと思っても、脱会を表明すれば、高澤牧師から信仰を失ったと認定されるまで、言いなりにならなければならないと思うと、我慢できないのです。
3月8日ごろ、私はやっと偽装脱会を決意しました。覚悟できたのは、教祖である文鮮明師が、いかなる迫害も神の心情を中心に超えて行かれたことを思ったからです。私も文師のように越えていこうと思ったのです。
【脱会屋の宮村峻氏】
翌日、高澤牧師は、東京から脱会屋の宮村峻氏を連れてきました。宮村氏は激しい口調で次々と教会と統一原理、文鮮明師の批判をしました。一方的に言いたいことをまくしたて、プイッ!と横を向き視線を合わせません。その態度に唖然としました。
宮村氏は、私が話そうとするとそれを遮り、批判を矢継ぎ早に語り、脱会を迫るのです。彼の批判は統一原理の誤った解釈であり、私が「それは違います」といっても、間髪をいれずに一方的に話すのです。
私はこの状態を続けていたら、いつまでも監禁から解放されないと思い、前の日に決意した通り「分かりました。やめます」と言ったのです。その途端、あまりの悲しさに涙が出ました。宮村氏は「なんだ、とっくに落ちてるじゃないか」と言いました。私の涙に宮村その高沢僕も脱会したと思ったようです。
私は高澤牧師に脱会を浸透させるため指輪を渡しました。偽装脱退後も官憲が続きました。
春になると、鈴木真理子副牧師夫人が来て「原理のどこが間違いだと思ったの?」と聞きました。私はドキッとしましたが、高澤牧師が「文鮮明がメシヤだとは証明できない」と言っていたことを思い出し、質問をかわしました。
高澤牧師は「あんたのは(拉致監禁)はスペシャルだった、ビッグスリーに入る!一つはO君がマンション六階から落ちた、2つ目はSさん。 3つ目があんただ」と言いました。O君がマンション六階に監禁され、逃げようとベランダに出て柵を越え五階に降りようとしたところ、地面に転落して瀕死の重傷を負い、記憶喪失になったとのことでした。
私は、脱退を表明後も監禁が続くので苦悩しました。「偽装脱会がバレたのかもしれない」と心配しました。7月頃、高澤牧師が、「あんたが逃げたら私は非常に困る」と言いました。長く監禁されるのは、教会襲撃事件が気がかりで、私が二度と家庭連合に帰らないよう脱退を徹底させているのがわかりました。
ある日、高澤牧師は、父が2月から急激に痩せた理由を話しました。父をよく知る警察官で、教会襲撃事件を知っている人が退職した場合、父に悪い影響があることを心配し痩せたとのことでした。
私は話の意味がよく理解できませんでしたが、牧師が言うには父は悩み、刑務所に入る覚悟の手紙を書いて牧師に渡したと言いました。牧師は父に「何を弱気なことを!」と言ったそうです。実際に監禁を取り仕切っているのは高澤牧師なのに、他人ごとのように話す姿に憤りを感じました。
1998年8月30日、キリスト教神戸真教会に移り「リハビリ」生活をすることになりました。二階の窓は金属製の格子があり、脱出防止だと思いました。
私は外出する時両親や元信者と一緒であり、体力も無く逃げるのは困難でした。私は体力を回復させようと、散歩に行くようにしたのです。両親が一緒に来るので、一人になる時を待とうと思いました。
【脱出】
9月15日、西日本福音ルーテル青谷教会でバザーがありました。私はバザーに行き、母が2000円をくれました。洋服を買い、1400円を手元に残しました。わたしが「帰ってもいい?」と聞くと、「いいよ」と言い、はじめて一人になれました。
私は自分の意思で出て行くことを伝えようと思い、一旦教会に戻りました。両親も帰ってきて、母は二階で服の試着をしました。母が下に降り、私は置き手紙を書きました。手紙には
①偽装脱会していたこと
②統一原理は正しいと思っていること
③キリスト教に限界を感じたこと
④襲撃した教会に謝ってほしいこと
⑤拉致監禁するなら一生会わない覚悟でいること
を書きました。
置手紙を残し、私は午後2時過ぎ脱出しました。大阪の梅田に行き、駅近くで伝道していた家庭連合の人に保護を求め、無事に救出されたのです。
私は家庭連合の信仰を持ったという理由で両親、高澤牧師らによって所属していた公認教会を襲撃され、拉致監禁され、脱会強要を受けました。監禁中、体調を崩しても医師の診察資料をすぐ受けられませんでした。精神的・肉体的苦痛は甚大でした。
この悪質な宗教迫害及び人権侵害を私は断じて許すことができません。