脱会説得による悲劇(6) その時警察はどう動いたか③「人権を無視した拉致監禁、許せない」M・Sさんの体験

家庭連合の信者に対する事例紹介動画の第6回です。

家庭連合と出会って五年目の1991年。当時私は広島県にいました。ほかの県に住む両親の言動に、反対派とつながっているのではないかと感じることがありました。
1991年3月、両親は車で広島に来ると言うのです。不安を感じていた私に、教会の人は「監禁に注意するように」と言いました。私は拉致監禁がどんなものか充分に理解していなかったため、「監禁されても逃げてきます」と軽い気持ちで出かけました。
父が運転する車の後部座席に、母と私が座りました。母は「実は今日はお見合いをしてほしいの」と話してきました。私は家庭連合での結婚を望んでいたので、「お見合いで結婚するつもりはないので」と断りました。
母は「それはわかってるけど、親戚の勧めで断れない。同席するだけで良いから」と言うので、仕方なく向かいました。

連れて行かれたところは、入り口がオートロックのワンルームマンションでした。部屋に入ると、なぜか従妹が2人おり、布カバーがかけられた衣装ケースが隅に置かれていました。
部屋の真ん中にはテーブルがあり、そこで初めて“騙された”ことに気がつき、逃げようとしましたが、すでに玄関ドアには鎖が巻かれて、南京錠が付けられていました。ベランダの窓の鍵も鎖が巻かれてあり、それを隠すためにリボンが飾られていました。
騙された悔しさとショックことが入り混じった、複雑な気持ちでした。私は、「ここから出してよ!」と大声でさけびました。ところが、両親は「一緒に勉強しよう」と、妙に落ち着いた表情で言うのです。その落ち着いた態度が、不気味でした。
後から分かったことですが、両親は監禁(反対派は「保護」と呼ぶ)のやり方や、監禁された信者がどのように行動し、それにどう対応すべきか、私の監禁前に、反対牧師や元信者から教育されていたのです。それで、両親は冷静に振る舞い、「一緒に勉強しよう」と言っていたのです。
また、後で両親から聞いたのですが、私を監禁するために乗せた車から、もしも私が逃げた場合には、すぐに取り押さえられるよう、親戚の男性が乗った後続車がついてきていたのです。マンションの階は、私が飛び降りて逃げられないように高層階でした。

こうして、監禁生活が始まりました。
両親は2人とも働いていましたが、私の監禁のために長期休暇をとっていました。最初の3日間、牧師は来ませんでした。両親が私の状況を牧師に報告して、私の聞く姿勢が整うのを待っていたのです。
狭いワンルームで24時間、両親に監視されながら生活するのですから、それだけでも精神的におかしくなります。夜中に目が覚めても、どちらかが起きており、私の方をじっと見ていました。
玄関の南京錠の鍵は、父がいつも首からぶら下げていました。私が何を言っても、「自分たちも勉強したいから一緒に勉強しよう」と、決まった答えが返ってくるのです。

4日目になって、牧師が来ました。当時、岡山の庭瀬にあったキリスト教会の高山正治牧師でした。感情的なタイプではなく、とつとつと話す人でした。
聖書と原理講論を比較しながら、原理は間違いだと批判するのです。また、写真や資料を見せながら、文先生の批判をするのです。さらに文先生のご家庭や、教会の批判を毎日毎日、語ってきました。
監禁部屋には、テレビや雑誌もなく、何の情報も入りません。両親は牧師の話を聞いていましたが“一緒に勉強する”というよりも、“いかに私が、家庭連合が間違いだと理解するのか”を常にうかがっているような様子でした。
私は脱会強要から逃れようと、ベランダのガラス窓を割って逃げることも考えました。しかし、そこはマンションの高層階。常に両親が見張っており、何か起これば、即対応する姿勢でいたために、チャンスはありませんでした。

私は“仮病”を使って病院に連れて行ってもらい、逃げ出すことを計画しました。牧師は「仮病を使って逃げる教会員もいる」と外出の許可を渋りましたが、両親が折れて、病院に行くことになりました。
私は大きな病院を指定し、両親ら3人に付き添われて行きました。病院の待合室で監視が手薄になるように仕向けながら、父と2人だけになった時、私は“今だ!”と走りだしました。
タクシー乗り場に行き、なんとかタクシーに乗り込みました。ところが、父が必死になって追いかけてきて、そのためにタクシーの運転手が発車せず、ついに父に追いつかれたのです。私は運転手に“私は監禁されています。名前は〇〇です。連絡先は○○です”と言い、あらかじめ準備していた教会の電話番号のメモを渡しました。
治療中、私は医者や周りの人に聞こえるように、「私は監禁されています。助けてください」と叫びました。しかし、病院ということもあって、周囲からは精神異常者のように見られ、誰も取り合ってくれませんでした。

治療後、病院の事務の人から「ただごとではなさそうなので、警察を呼びました。こちらの部屋で話してください」と言われ、地下の部屋に通されました。そこに背広姿の刑事が2人おり、両親とひそひそ話をしていました。その後、刑事は私とも話をしました。
私は不安を感じて、本当に刑事かどうかを確かめるために、警察手帳を見せてもらいました。
私は「監禁されています」と訴えましたが、刑事は、「親が一緒にいて、何が監禁だ!あんたが家を空けた数年分、今度は家に居ろ!」と逆に怒鳴られたのです。
警察は事情を知った上で、このような態度を取っていることがわかり、私はとてもショックでした。
結局、再び監禁場所に戻されることになったのです。両親は、反対牧師から教育を受けていることもあり、冷静沈着で、何事もなかったかのように監禁生活が続いていくのです。

それから約一ヶ月間、牧師が来て脱会説得が続きました。他の誰ともコンタクトが取れない閉鎖された環境の中を、毎日毎日、家庭連合批判を聞かされ、私は精神的に混沌としました。極限状態に陥ったために、私は「家庭連合脱退します」と表明しました。
すると、高山牧師は、「なぜそう思うのか。話の内容のどこでそう思ったのか」と尋ねてきました。
私は、詳細を話すことはしませんでした。高山牧師は「偽装脱会をする人がいるから」と半信半疑で、「村上先生に会ってもらう」と言ってきました。
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団・京都教会の村上密牧師が来ました。村上牧師は、私が家庭連合の間違いを理解して脱会しようとしているかどうかを見極めようと、二度も来ました。そして“もう大丈夫だろう”ということで、監禁から解放される許可がやっと出たのです。
私は、脱会届を家庭連合に郵送し、荷物を家庭連合に取りに行きたいと希望しました。ところが「統一教会(家庭連合)は恐ろしいところで、辞めると何をされるか分からない。だから行かない方がいいし、誰とも会わないように」と説得してきました。そして、東京から和賀真也牧師も会いに来たのです。

私の監禁の当初より、監禁場所には元信者が訪ねて来ました。偽装脱会後、私の脱会が本物かどうか、家庭連合に対する未練がないかどうかを見極めようと、元信者が毎晩のようにやってきました。家庭連合に未練がないかどうかは、牧師よりも、元信者がよくわかるという判断からでした。
家庭連合は“飲酒はしない”ため、元信者は「脱会したので禁酒はしなくてもいいのよ」と言い、缶酎ハイを持ってきたこともありました。

私はその後“聖書を学びなおす”ということで、マンションを出て、高山牧師の教会で聖書の勉強をし、主日礼拝にも足を運びました。
しかし、家庭連合で学んだ以上に私の心を動かすものはありませんでした。主日礼拝には、「これから何を信じ、どう生きていけばよいのかがわからない」と、生きる指針を失い、とりあえず身の置き場を求める元信者が数人、通っていました。

高山牧師の教会の看板には、「統一教会、エホバ(ものみの塔聖書冊子教会)などの異端問題の相談を受け付けています」と書かれてありました。礼拝後に、別室に通されましたが、その場には、元信者の他、家庭連合に子供が通っていることがわかり、「どうしたら良いか」と相談に来ている親御さんもいました。
そして、「家庭連合との関係を断ち切った環境で、時間をかけて説得するしか、子供さんが家庭連合から脱会することはない」という話になり、親御さんの一人が「それにはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねても、高山牧師は「私の口からは言えない」といい、具体的な監禁の話は口にせず、元信者に誘導させるのです。
そうやって具体的にどうしたらよいのかという話になり家庭連合は反社会的団体なので、子供さんをその活動に加担させてはいけない」と父兄に吹き込み、最後に監禁をしなければ、子供を取り戻せないという話になっていくのです。
高山牧師から「統一教会(家庭連合)で献金したり、物品を購入したりしたことがあれば、弁護士を紹介する。統一教会に経済的ダメージを与えて早く潰すために、全額を返済してもらったらいい」と言われました。

私は、約一ヶ月間をかけて、両親に気づかれないように家庭連合に戻る準備をしました。
この期間、元信者の手記や、和賀真也牧師の教会批判の本など、たくさん持ってこられ、全てに目を通しました。しかし、私の中にある家庭連合の信仰の核心部分は、何をもってしても覆されませんでした。
私は、両親に置き手紙を残し、家庭連合に戻りました。教会の祈祷室には、私の似顔絵が描かれた色紙が立てかけてあり、みんなが私のため毎日祈ってくれていたのが分かりました。

それから一年間、私は再度、監禁されるのではないかという恐怖心から、精神的に地獄のような日々を過ごしました。
道を歩いても、前方に停車した車があると、車から人がバッと降りてきて連れていかれるのではないか。突然、道のどこからか人が出てきて車に乗せられるのではないかとの不安に怯えたのです。外に出るときは、サングラスをかけて歩きました。あの耐え難い監禁という恐怖。受けた心の傷はなかなか癒えませんでした。

私は結婚して、今は2人の子供に恵まれました。私たち夫婦に対して、普通の家族同様に接してくれる両親には感謝しています。しかし、信仰を真っ向から否定し、人権を無視した拉致監禁という“蛮行”は、絶対にあってはならないことだと思います。