脱会説得による悲劇(5) その時警察はどう動いたか② 「3度の拉致体験―監禁行為に加担した警察官」K・Sさんの体験
家庭連合の信者に対する事例紹介動画の第5回です。
【助けを求める私の頭をたたいた刑事部長】
1992年11月30日の真夜中、両親と親族が「話し合いだ、牧師の話を聞くんだ」と私を羽交い絞めにし、無理やり車に押し込みました。目隠しをされ、上野の短期賃貸マンションに監禁されたのです。脱会強要目的で監禁されたことは明確でした。私は抗議し、大騒ぎしました。思いっきり窓を蹴っ飛ばすと、窓ガラスが割れ、「拉致監禁です。助けてください!」と大声で叫びました。
しばらくしてサイレンが聞こえ、銃を携行した機動隊員が入ってきました。父が玄関で隊員らと話しているのを見て、私は解放されると思いました。ところが、刑事部長が私に対し「統一協会(家庭連合)問題は親子問題だ。騒がせるな!」と言ったのです。
私は必死に助けを求め、脱会強要の為に監禁されたことを説明しました。ところが、刑事部長は私の頭を叩き、引き上げたのです。私は、本当にがっかりしました。私は、再び叫びました。両親は私を毛布でくるみ、取り押さえようとしましたが、私はそれを振り払い、不当な拉致監禁に抗議し続けました。
すると、マンションの管理人がやってきて、「営業妨害だ、出て行ってくれ」と言われ、それでやっと両親は監禁を諦め、私は解放されたのです。
これが一回目の拉致監禁でした。
【油断させ、2度目の拉致監禁】
2度目の拉致監禁は1995年3月でした。両親が、私の大学卒業の祝いをすると言い、そこに親戚も来ると言うのです。私は「伝道のチャンスだ」と喜びました。
当日、親戚に教会関係のビデオを見せ、親族らは拍手までするのです。その後、ボーリングと食事をし、私は大喜びでした。実は、それは私を油断させる為の罠だったのです。騙されていることに気づかず、帰宅の車に乗りました。
車が自宅と違う方向に向かって走り、高速道路に入ったとき、私は監禁に気づき、車の中で暴れました。車は群馬県太田市のマンション駐車場に到着しました。午前零時を過ぎており、私は助けを求めて大声で叫びました。
一回目の拉致監禁も、私が大声を出して管理人が来て解放されたので、閑静なマンション駐車場で叫んだのです。親や親族はまずいと思ったのでしょう、私を利根川の河川敷に連れて行きました。
河川敷でもみ合いとなり、私が親戚の人に頭突きをしたところ、みんなが本気になって激しくもみ合いました。一瞬の隙を突いて、私は一気に土手を越え、駆けました。朝日が昇る中、限界を超えて、畑を走り続けたのです。
私を追いかける父を振り切って、ある民家に隠れました。しばらく、両親や親戚が走る足音、私を呼ぶ声、車のエンジン音が聞こえていました。まるで“野犬狩り”をしているかのような中を、私は震えながら隠れていました。見つかるのでは、と不安におびえながら、むしろを被って3時間くらい隠れていました。
やがてその家の子供に見つかったため、やむを得ず外に出ました。私は公衆電話を探し、家庭連合に連絡を入れ、助けに来てもらって2回目の達から逃れることができたのです。
こうして強制脱会を目的とする拉致被害に二度も会いました。当時を振り返れば、それでもなお、親を信じたい自分がいたのです。
【手足を建築用資材で縛られる】
3度目の拉致監禁被害にあったのは、1997年4月11日でした。朝7時頃、仕事に行こうと、教会施設から出て道路を歩いていると、突然「Sだ!」との父の声が聞こえました。その瞬間手足を掴まれて担ぎ上げられ、近くに泊まったワゴン車に押し込まれました。
車の窓にはスモークが貼られ、ドアが開かないようになっていました。私は、車にかつぎ込まれても希望を捨てずに、叫びました。「拉致監禁です。助けてください!」と叫んだのです。拉致の場所が千住警察署のすぐ近くだったので、通報してくれた人がいたのでしょう。パトカーが追いかけてきて呼び止められ、千住警察署内の駐車場に入りました。
私は、「これで解放される」と期待しました。警察官がワゴン車のドアを開けた時、「私は人権侵害です。拉致監禁です、助けてください!」と言いましたが、母親を始めワゴン車と一緒に走っていた数台の車から約20人の人たちが降りてきて、一斉に警察官に向かって、「統一教会は悪の集団だ、これは親子の問題だ」と喚きました。
すると警察官は、「ああ、親子の問題ですから行ってください」とワゴン車のドアを閉めたのです。私の「助けてほしい」との訴えは無視され、監禁場所に強制的に連れて行かれるのです。
私は失望しました。私は「この国には“信教の自由”という人権がない。必ずこれを乗り越え、この国を変えなくては!」と決意し、涙を呑みました。
連れて行かれた場所は、2回目と同じ群馬県太田市のマンション駐車場でした。
到着すると約20人が、手際よく私を担ぎ上げて、マンションの一室に入れたのです。監禁を手伝うために来ていた約20人は、ニヤニヤと笑いながら私を見ていました。私は、自分の意思に反して無理やりマンションに監禁された悔しさを、今でも忘れることができません。
監禁されたマンションには、ドアのチェーンに南京錠とダイヤル式の鍵が取り付けられ、簡単には開かないように細工されていました。また二つあった窓の片方はベニヤ板で塞がれ、もう一方の窓に分厚いセルロイドの特殊な板がはめ込まれてあり、どちらも開かないようになっていました。
私は、部屋の状況を見て、怒りを収め切れませんでした。トイレのドアは鍵がかからないよう細工がしてあり、それを見てさらに怒りが湧き、その怒りが言葉の暴力となりました。やがて殴り合いに発展して、私はみんなから取り押さえられ、手と両足を建築用資材で縛られました。
その資材は動けば動くほど、きつく締まっていくものでした。手を後ろに回されて縛られ、動くほどきつく締まるため、ついに肩を脱臼しました。私は脱臼したこととその激痛を訴えましたが、それでも建築用資材を外してくれず、ご飯を食べる時も犬のように食べさせられました。
風呂も手足を縛られたままの状態で父に洗われたのです。人間として扱われないことが本当に悔しくて、泣きました。監禁から3日間、その仕打ちが続きました。その間に、妹からも殴られることがあり、本当に悔しい時間を過ごしました。
【清水牧師「縛ったっていい」】
監禁の翌日、私が呼んでもいないのに、日本基督教団・太田八幡教会の清水与志雄牧師がやってきました。私は不当な環境の中、一方的に話してくる牧師に対して、何を聞かれても答えませんでした。
両親が「統一原理を講義してくれ」と頼んできたので、書籍をそろえるよう頼み、原理講義を始めました。私は、親を伝道しようと真剣に決意し、講義案を作って70日間、講義をしました。途中、父は「文先生はメシアではないかと思った」と感想を述べました。
しかし、清水牧師が、さまざまな家庭連合批判をするために、両親の伝道は難しくなり、私は本当に悔しい思いをしました。
その間、文先生ご夫妻が夢に何度も現れ、私を励ましてくださいました。そして神様から啓示を受けたのです。優しい声で「お前を愛している。私の願いを叶えておくれ」と言われました。それは40日目のことでした。涙が止まらず、神様の愛に包まれ、力が沸きました。
その後、「神様の願いとはなんだろう?」と思いながら過ごしたのです。
拉致監禁から約三ヶ月が過ぎた7月のこと。私は長期の監禁に極度の精神的ストレスが重なり、怒りが爆発し、窓を思いっきり足で蹴りました。
すると分厚いセルロイド板がたわみ、窓ガラスにヒビが入ったのです。それを見た両親は激しく憤り、清水牧師を呼びました。マンションに来た清水牧師は、土足で部屋に上がり、両親に対し「暴れたら縛ったっていいんだ」とけしかけました。
8月、私は運動不足とインスタント食品の摂り過ぎのせいか、尿道結石のために尿道が切れ、血尿が出ました。体がどうにかなるのではないかと思って、私は、「病院に行かせて欲しい」と泣きながら訴えました。
しかし、母は涙を流しながら、「牧師の許可がないと連れて行けない」と言うのです。
息子の体を心配する母でしたが、完全に牧師の指示どおり動いている姿を見て、とても悲しく、そのように指導した牧師に対して怒りがこみ上げました。
血尿が出て、痛みに耐えながら2日間を過ごした後、清水牧師が来て「親戚の人数は揃っているか?監視ができる病院が良い」などと言いました。母の気持ちや私の健康状態に関する話は全くせず、ただ私が逃げ出すことを心配していました。
結局、その日も病院には行かせてもらえず、数日後、親戚が勤める病院で、牧師が診察室に入ってきて私が逃げないように監視する中で、やっと診察を受けたのです。私は、このような状況から、監禁から解放されるには“偽装脱会”しかないと思いました。
やがて私が信仰を失ったと思ったのでしょう。週に一度、逃げられないように監視付きでしたが、清水牧師の太田八幡教会の「勉強会」に連れて行かれるようになりました。9月18日、太田八幡教会の勉強会に行く時、隙を突いて私は逃げ出しました。
しかし、五ヶ月間の長期監禁のため、速く走ることができず、追いつかれてとり抑えられました。父は、母に「牧師呼んでくれ」と言い、通行人にも訴えたので、群馬の太田警察署のパトカーがやってきました。
【人権侵害を見過ごす警察】
警察官に対し、私が五ヶ月間、監禁されていた事情を話していると、清水牧師がワゴン車でやってきました。警察官は清水牧師とも話し始めました。千住警察のとき、警察官は私の訴えを完全に無視し、父兄たちの主張だけに反応しました。
太田警察の場合は、少し様子が違っていました。私は、自分の意思に反して長期にわたって監禁され、自分の人権が無視され、侵害されている事実を必死に訴えました。警察官は、牧師と話し合っていましたが、どうやら牧師に説得されたようで、「親に迷惑をかけるな」と私に言ってきました。
結局、私は警察官が護衛する中を再び監禁されていたマンションに連れて行かれたのです。偽装脱会のすきを見て逃げ出し、失敗して再び捕まったため、私は偽装脱会がさらに困難になり、自由を得るのは難しくなると思い、おとなしくせざるを得ませんでした。
マンションの部屋に入ったとき、私は警察官に質問しました。「あの窓を見てください。ベニヤ板がはめられて、開かないようになっています。これは監禁ですね」
そう訴えても、警察官は、「いやこれは親子の話し合いだから」と言うのです。私はもう一方の窓の分厚いセルロイド板を示して質問しましたが、答えは同じでした。本当に“失望”しました。
私は、次の脱出のチャンスを待とうと思いました。11月10日のことです。何を言われても、私が感想を述べずにいたところ、清水牧師が「そろそろどうなんだ、(家庭連合を)やめたらどうか」と尋ねました。そこで、私は、「やめようと思っています」と告げたのです。
私は脱会を決意したとのことで、日本基督教団・戸塚教会の黒鳥栄副牧師につなげるということになり、横浜に行き、元信者と面接が持たれることになりました。11月14日夜、私は元信者との面接時間を持ち、両親は清水牧師と話し合いをしました。
元信者は、私の三度にわたる拉致監禁に対し、「拉致監禁は犯罪だ!」と言い、その強引なやり方に同情を示しました。しかし、そのように語ってくる元信者は、私が“偽装脱会”かどうかを見極めようとしている可能性もあるために、私は意に反して「親は子供を愛しているのでそのようにしたと思う」と、元信者に語らざるをえませんでした。
11月15日午前零時過ぎ、外は小雨が降っていました。私が脱会を告白した後、玄関ドアのチェーンが施錠されずにいました。両親も安心した様子でインスタントラーメンを食べていました。私は“逃げるチャンスが来た”ことを感じました。
玄関のスポーツシューズを履き、私は小走りで外に出ました。交通手段がないため、追いかけられた場合に、逃げ切ることは難しいという不安がよぎりました。するとめったに通るはずのない深夜の道路を車が走ってきて、近くの交差点の信号が赤になり、目の前で停車したのです。
それを見て、私は“神様が助けに来てくださった”と確信し、車のドアを開けて飛び乗ったのです。見ず知らずの者が飛び乗ったにもかかわらず、車を運転していた人は「どうしたの?友人が事故ったの?東京まで送って行こうか」と言ってきました。
どうして“東京”と言ったのかわかりませんが、私は「館林まででいいです。あとはタクシーで帰ります」と告げ、館林まで送ってもらいました。こうして、3度目の七ヶ月以上に及ぶ監禁から解放されて、やっと“自由を得ること”ができました。
私は、大切な両親が牧師の言いなりになり、自分で物事を考えて行動することができなくなっていた姿が、どうしても許せません。両親は、牧師から家庭連合批判を一方的に聞かされ、そのあまりのひどさに「自殺まで考えた」と語っていました。息子を愛する親の気持ちを牧師は利用して、両親の不安を煽って監禁を教唆しているのです。
両親は、私をマインドコントロールされた人間としてしか見ることができず、純粋な目で子供を見ることができなくなっていました。そして、私が監禁中にマンションで聞いた「お前を愛している。私の願いを叶えておくれ」という神様の願いとは、この“拉致監禁をなくすこと”であると感じています。