信仰の祖国

家庭連合の教義は、韓国中心主義であり、自虐史観を持っているので、反日団体であるという非難があります。これは信仰の問題と国家的な立場をごっちゃにした、誤った見方です。

家庭連合の教義として、イエス・キリストが神が選んだ民であるイスラエル民族に降臨したのと同様に、再臨のメシアも選民に降臨するとしています。そして、その選民とは韓国であると説明しています。(原理講論後編第6章第三節(三)「東方のその国はすなわち韓国である」)

このために、家庭連合の信者は、韓国を信仰の祖国として大切にしています。家庭連合が主宰する宗教的な式典では、韓国の文化・習慣を取り入れたものが多くあります。祭壇に食事を積み上げたり、教祖である文鮮明師ご夫妻(私たちは真の父母と言っています)の写真の前で敬拝(両手をついて、最敬礼する韓国式の礼式)を捧げるなどです。韓国語を信仰の母国語として学ぶように奨励しているのも、そのためです。これらは、韓国に対して日本が罪を犯したなどという、いわゆる自虐史観とは全く関係がありません。

韓国を信仰の祖国として大切にすることは、日本だけではなく、海外の全ての家庭連合の信者に共通しています。私はかつて中国とマレーシアに駐在したことがありますが、そこの信者たちも、韓国を信仰の祖国と認識し、韓国の聖地清平に行くことを、なによりも楽しみにしていました。

家庭連合以外の宗教でも、信仰の祖国を愛する心は同様です。例えばイスラム教徒であれば、一生に一度、聖地メッカを巡礼をすることを望み、そのためにお金を貯めます。イスラム教国であるマレーシアでは、ホテルの全ての部屋の天井に、聖地メッカの方向を示した矢印が描かれていました。聖地メッカに向かって祈祷できるようになっているのです。

従い、家庭連合の信者が、韓国の文化を大切にしたり、韓国式の式典を行ったり、献金などの宗教的な活動をするのは、信仰に基づくものなのです。韓国中心主義ではなく、神中心主義です。

一方で、反家庭連合陣営は、家庭連合が信者に対して、「日本は韓国に対して罪を犯したから、日本人は韓国人に対して贖罪し、献金を捧げなければならない」と教えていると宣伝します。しかし、日本と韓国の関係は歴史観に係わることであって、家庭連合の教義とは違う次元の話です。

確かに家庭連合の経典である原理講論には、韓国民族が、1910年の韓国併合以降、日本の帝国主義的侵略により、いかに苦しめられてきたか、ということが記載されています(前掲箇所)。しかしこれは、メシアが降臨する韓国は、苦労の道を行かなければならないという趣旨で書いているのであって、日本が贖罪するべきだなどとは書かれていません。

日本の立場で言えば、日本はロシアや西洋列強の脅威に対抗するために、韓国や中国、東南アジアに進出したのであって、これはロシアや西洋列強が行っていた植民地政策と、基本的に異なるものではありません。ただ、中国東北部を管轄していた陸軍関東軍が暴走して張作霖爆殺事件や満州事変を起こし、朝日新聞などのマスコミが国民を煽り立て、日本が後戻りのできない戦争への道へ突き進んでしまった、という経緯があります。その結果、日本の海外統治政策に暗い影を落としたことは、否定できません。

韓国の立場で言えば、一方的に進出してきたのは日本であって、創氏改名、神道の強制、日本語の強要、反対者への投獄・拷問を行ったということで、日本に謝罪せよということになります。

この点、日本人が自虐史観に陥って日本人は悪いことばかりをやったとか、逆に日本は韓国に対して良いこともやったのだから韓国人が日本人に恨みを持つのは筋違いだとか、一方的な見方のみで歴史を捉えるのではなく、事実を客観的に把握する努力が、日本人と韓国人の双方に必要なのだと思います。これは、家庭連合という宗教の問題ではなく、両国の歴史観に係わる問題です。

少なくとも宗教的な観点では、「日本人は韓国に対する贖罪のために高額献金にも応じるべきだ」という考え方は、私にはありませんし、そのような指導をされたこともありません。私もさんざん献金は行ってきましたが、純粋に神の国の建設のための基金として捧げてきました。

国家間の健全な関係は、個人のつきあいと同様、お互いに尊敬しあうところから始まります。その上で、信仰の祖国としての韓国を、私は大切にしていきたいし、私を生み育んでくれた日本を、同じように大切にしていきます。