女の一生 一部・キクの場合(2)

遠藤周作の文学を読むと、キリスト教を背景とした、人間の罪と救いに関する、深いテーマが感じられます。

高校の時に「沈黙」を読んだことがあります。江戸初期にキリスト教が禁止され、切支丹は拷問され、イエズス会の司祭ロドリゴが神に救いを求めますが、神は沈黙を守ります。ロドリゴは最後に踏み絵を踏むのですが、その時に、罪ある人間をいかんともできない神の苦しみを知る、という物語です。

高校の時はよくわかりませんでしたが、今考えると、「人間の罪と救い」は、遠藤周作の作品に通奏低音のように共通するテーマのように思います。

女の一生では、切支丹の清吉を助けようと、キクは切支丹を拷問にかける役人である伊藤清左衛門に体を売ってまでして、清吉を救うように懇願します。清吉は生きて故郷の浦上に戻りますが、その直前にキクは結核で死んでしまいます。物語はここで終わりますが、遠藤周作は、何十年も後に、伊藤が罪の思いにさいなまれ、人生の最後に神に救いを求め、洗礼を受けたことを清吉に告白する、というエピローグをわざわざつけています。多分ここの部分は遠藤周作のフィクションですが、作者のメッセージが込められていると思います。

「神がいるなら、なぜ私たちを助けてくれないのか!」という人間の叫びに対して、何も答えない神ですが、その背景には人間に罪という問題があり、これを解決しない限り、手を差し伸べることができないという神の悲痛なる心情を、遠藤周作は読者に伝えたかったのではないかと、思います。