イエス様の生涯と愛(2)

文鮮明師は、キリスト教会からは異端視されていますが、イエス様を誰よりも理解し、愛した方だと思います。
以前書いたように、私は元々クリスチャンではありませんが、統一原理を学んで、とてもイエス様を敬愛するようになりました。それは、イエス様が、人類の罪を背負って、誰からも理解されない立場で十字架の道を行き、最後まで神様の願いのために、苦難の道を行かれたからです。

本来の神の願いは、地上に神の国を作ることでしたが、人間の不信仰のためにそれが実現できなくなったため、イエス様は十字架の道を行かざるを得なくなりました。それでは、人間の不信仰とは、どのようなことであったでしょうか。

聖書には、次のように書いてあります。

神様が選んだ民であるイスラエル民族は、自分たちを治める王を待ち望んでいました。そして神様が地上に送ったのが、イエス様でした。
本来なら、国教であるユダヤ教の最高権威者である律法学者や祭司が、イエス様のみ言葉を受け入れれば問題はなかったのですが、それがあまりにも新しいものであったため、彼らはイエス様を、社会を混乱させる者として否定します。
仕方がないので、イエス様はご自身で弟子を集め、ペテロを始めとして12人の弟子ができました。しかし、これらの弟子も、イエス様、イエス様を裏切りました。イスカリオテのユダが銀貨30枚でイエス様を売ったというのは、有名なエピソードですが、彼だけではなく、イエス様が逮捕されると、弟子は全て逃げてしまったのです。第一弟子のペテロは、イエス様を3回知らないと言いました。ペテロは自分がイエス様を裏切ったことに気づき、泣いて後悔しますが、後の祭りです。最後までイエス様に従っていたら、イエス様は十字架につかずに済んだかもしれません。
ローマの総督ピラトは、イエス様に罪を認めず、彼を許そうとします。しかし律法学者にそそのかされたイスラエル民族は、それを拒絶し、イエス様の処刑が確定します。そしてイエス様は、誰一人として擁護する者もない中、言い訳一つせずに、十字架につけられ、「神よ、彼らを救いたまえ」と叫んで絶命するのです。

もし、イスラエル民族がイエス様を王として迎えていたらどうでしょう。もしペテロを始めとする弟子が裏切らなかったらどうでしょう。もしピラトが恩赦を出そうとした時、イエスを許せと勇気を奮って叫ぶ人がいたらどうでしょう。
イエス様は十字架につくのではなく、生きて人類を神の道に導くことができたのではないでしょうか。しかし、そのようにはなりませんでした。

イエス様は、残念だったに違いありません。「わが神わが神、どうして私を見捨てたのですか」と十字架上で叫んだのは、自分が辛いからではなく、本来のイエス様の使命である、神の国を作るという道が絶たれてしまったからです。そして、そのような立場に、地上で最も愛するイエス様を追いやらざるを得なかった神様は、もっと辛かったに違いありません。

二度とイエス様を十字架につけるようなことをしてはいけないと、文鮮明師は語りました。私は、その言葉を大切にして、家庭連合の信仰を続けています。