女の一生 一部・キクの場合

カトリック教徒でもある、遠藤周作の作品です。長崎県の浦上地区で、江戸幕府による切支丹禁止令の中で、脈々と信仰を保ってきた切支丹が、幕末にフランスの宣教師であるプチジャン牧師に出会います。260年もの間、教会も牧師もいない中、教義的な大きな間違いもせず、純粋な形で信仰を保ってきたことは、奇跡的なことでした。これは当時ヨーロッパで、大きなニュースとなったそうです。

ところが、時代が変わり明治となっても、新政府は切支丹禁止令を引き継ぎ、浦上を始めとする切支丹に対する弾圧を行います。浦上の切支丹は、島根県の津和野に連行されて監禁され、食事や寝具も与えられず、棄教を迫られました。信仰を捨てれば食事や寝具は与えられるのですが、そうでなければ拷問が待っています。

神様がいるのなら、どうしてこのような苦しみを与えるのですか、と切支丹たちは叫びます。転ぶもの、つまり棄教する者もいました。しかし最後まで信仰を保った信者は、イエス様の十字架に比べれば大したことはないと言い、そのまま死んでいくものも少なくありませんでした。

この弾圧は、フランスやイギリス、アメリカなどの政府が日本政府に対して強く抗議するところとなり、当時の日本と諸外国の間の不平等条約の解消に対する大きな障害となりました。結果的に日本政府は事態の深刻さを悟り、明治6年に、260年ぶりにキリスト教が解禁されたのです。

この本は、以前も読んだことがあるのですが、今回改めて読み直して、いろいろ考えさせられました。家庭連合の信者は、現在全国的なレベルで迫害されています。友人を失い、職も失い、名誉も踏みにじられる、ということが現実に起きています。さらに、拉致監禁被害も頻発しています。身体を拘束されて棄教を迫られ、信仰を捨てない限り解放されず、その後も他の信者の棄教説得に協力させられるという事件が、現在でも発生しています。これらのことは、マスコミに報道されることはありません。

このような状況は、明治時代のように、海外からの圧力がないと、解消しないのでしょうか?日本には自浄作用はないのでしょうか。

私には、その答えはわかりません。ただ言えることは、長崎の切支丹たちは、ただ信仰のみを力として、苦難を乗り越えましたということです。家庭連合の信者である私たちも、自らの本心に対して誠実に、信仰を貫いていきたいと思います。