いじめの構造

著者の内藤朝雄氏は、ご自身の体験から、学校という共同社会の中で、「いじめ」が発生するメカニズムを分析しています。
「いじめ」による自殺など、ときどき悲惨な事件が報道されますが、私たちはそれを、「学校の問題だ」とか、「親子の問題だ」などと、簡単な図式で片付けようとします。
しかし「いじめ」は学校に特有の問題ではなく、私たちの社会全体において、いつでも発生しかねない社会問題であると、著者は主張しています。それは時には全体主義となり、社会を誤った方向に導きます。著者は、戦前の国家全体主義や、中国の文化大革命を例に挙げています。(P242)
そして私は、家庭連合に対するマスコミや行政による大バッシングは、この「いじめの構造」そのものであると思っています。

「はじめに」から、一部引用します。
「いじめは、学校の生徒たちだけの問題ではない。昔から今まで、ありとあらゆる社会で、人類は、このはらわたがねじれるような現象に苦しんできた。本書では、人間が人間にとっての怪物になる心理-社会的メカニズムである、普遍的な現象としてのいじめに取り組む。」(P3)

「いじめ」は、それを行う側は、ほとんど罪の意識を持っていません。周囲の雰囲気で、いじめの対象を攻撃し、それで自身の正義感と、対象を支配する全能感を充足させます。普通に社会生活をしている常識人が、人を傷つける「怪物」になりうるのです。

「いじめ」には、階級があります。
「小学校中学校を通じて、クラスには「ボス」「とりまき」「普通の人」「いじめられる人」というヒエラルキーがあった。数の上から圧倒的に多いのは「普通の人」で、いじめられるのはクラスで二、三人だった」(P151)
「ボス」は、弱みを見せると「いじめられる人」に転落する恐れがあり、いじめ続けます。「とりまき」は、保身術として、ボスが期待するいじめを率先して実行します。「普通の人」は、いつ自分がいじめられるかという不安から、いじめを見て見ぬふりをします。「いじめられる人」は、ただひたすら耐え抜くことで、生き延びようとします。

家庭連合に対する世間のバッシングも、まさにこの「いじめの構造」に当てはまります。
「ボス」を全国弁連や反対牧師などの反家庭連合陣営、「とりまき」をマスコミや行政、「普通の人」を一般市民、「いじめられる人」を家庭連合の信者と置き換えると、見事にこの構図に一致するからです。

「いじめ」を受けている当事者でなければ、「いじめ」を告発することはできません。大多数の人は、それが「いじめ」であると認識していないからです。
そして私は、「いじめられる人」の立場で、何も言わずに耐え抜く、ということはできません。
なぜならこの問題は、単に家庭連合だけのことではなく、日本の社会全体に係わることだと思うからです。少数意見であっても、それを尊重し、正論は正論として評価される社会でなければなりません。
一部の方は、正論を発信してくださっており、とても感謝しています。信者としては、とても勇気づけられます。
届かない声かもしれませんが、信者としての意見を発信し続けていきたいと思っています。