キリスト教はなぜ左翼化するのか
近年、日本キリスト教会の一部には、天皇制の撤廃を主張する動きが見られます。日本キリスト協議会は、皇室典範改正に際し、天皇制を廃止することを主張しました。また、日本キリスト教団は、約60年前に戦前の戦争責任を告白するとして、日本のために戦った人々をないがしろにするかのような発言をしています。
近年では、辺野古をめぐる平和運動に関わった日本キリスト教団の牧師の問題なども指摘されています。
このように、キリスト教会が次第に左翼化し、左翼思想との親和性を強めているように見える状況について、なぜそのようなことが起きるのかを考えてみたいと思います。
先日、家庭連合の田中元会長のNo Borderでも、同様の問題を触れていました。私は、キリスト教と共産主義との関係を考えることが、この問題を理解する一つの手がかりになると思います。すなわち、共産主義は、キリスト教の理想が実現されなかったことに対する、いわば裏返しの思想として生まれた面があるのです。
本来、キリスト教は、神を中心とする理想社会を築き、人々を救うことを目指してきました。しかし現実には、その理想を実現するどころか、社会の矛盾を広げてきました。資本主義の発展の中で、貧困にあえぐ人々が増えてしまったのです。
そのことに対し、共産主義は、「神の国の理想は実現できないではないか」「キリスト教では人々を救えないではないか」と訴え、唯物論を中心として理想社会をつくろうと主張したのです。
その背景にあるのは、報われない人々の恨みや苦しみです。働いても働いても十分に報われず、社会の中で抑圧され、置き去りにされてきた人々の声があります。そうした人々が「あなた方は私たちをどのように救うのですか。キリスト教では救えないのではないですか」と訴えたとき、キリスト教会が、「確かにそのとおりです。私たちの力では人々を救えません」と受け止めざるを得なくなってしまうと、共産主義に勝つことはできません。
もちろん、キリスト教会のすべてが左翼化しているわけではありません。神を中心とする理想の世界や伝統を守ろうとする、保守的な信仰を持つ方々も数多くおられます。しかし全体として左翼化が進むように見える背景には、共産主義が訴えてきた人々の恨みや苦しみに対して、十分な解決策を提示できていないことがあるのではないかと思います。
家庭連合の「統一原理」には、このように書かれています。
「初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻 す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。」(総序)
日本最大のプロテスタント教会組織である日本基督教団や、日本キリスト教協議会などが、国を愛する心を否定するように受け取られる立場を示すことがあります。これは、神を否定し、地上の理想社会を追求しようとする共産主義的な発想に近づいているようにも見えます。
キリスト教会が左翼化していく背景を考える際には、キリスト教が本来果たすべきであった、地上における理想社会の実現という課題に十分応えられなかったことが重要なのではないでしょうか。共産主義から「キリスト教は現実の苦しむ人々を救えていない」と鋭く問われたとき、教会が十分に反論できなかったことが、左翼化を招く一因になったのだと思います。
しかし、本来、神の理想はそのようなものではないはずです。神が願われる社会や世界を実現するために努力し、その使命を、キリスト教の思想を持つ国々や人々が果たしていくべきです。そのことを、改めて発信していきたいと思います。
動画はこちら
https://youtu.be/7D3gYwHbJ7g


