政治には宗教的倫理観が必要

よく「政教分離」ということが言われます。これは、宗教が政治に携わることや政治に干渉することを嫌うという意味で用いられることもあり、逆に、政治の側が宗教に介入してはならないという意味で用いられることもあり、さまざまな形で語られています。

私は、政教分離の原則とは、やはり原則どおり「政治が宗教に介入してはならない」ということだと思います。なぜなら、政治とは権力そのものであるからです。その権力が宗教に介入するということは、信教の自由が著しく脅かされてしまうことを意味します。最も分かりやすい例は、私の所属する家庭連合が政治の力によって権利を侵され、持っているもののすべてを奪われてしまったという事実であります。

では、なぜ政治において宗教的な倫理観が必要だと私が申し上げるのか。それは、政治が権力そのものであるがゆえに、何らかの価値観、何らかの理念によって運営されなければ、おかしな方向へ進んでしまうからです。
たとえば共産主義国家においても政治は存在します。そこで政治を司るのは、覇権主義的な考え方や共産主義から来る理念であり、そうした考えに基づいて政治を何よりも強くしていくというあり方になっています。

一方、民主主義の世界では、政治を人々の多数決や民意によるコントロールの下に置く仕組みになっています。一人ひとりの考え方こそが尊いものであり、それを合わせたものが民意であるという形です。ただし、政治権力そのものが直接に民によって統制されるわけではありません。現在のやり方は、人々が政治家を選び、その政治家がある価値観、ある理念に基づいて権力を行使するというものです。ですから、そこにおける理念とは何であるのかが、きわめて重要になるわけです。

現在の日本社会においては、何よりも尊いのは命であるという形になっており、個人主義的な価値観こそが最も大事であるとされています。最近では、れいわ新選組が党名を「命の党」に変えたようでありますが、はたして命だけが尊いのでしょうか。
命とは、生物的な、生死の概念に基づくものです。それ以外にも大切にすべきものはあるはずです。たとえば家族を大切にすること、国を大切にすること、あるいは他人のために自らを犠牲にするような精神性――そうしたものもまた、大事なのではないでしょうか。

そして、そのような目に見えないものに対する価値観を持つためには、やはり宗教的な理念が必要になります。これは、キリスト教でなければならない、あるいは私が所属する家庭連合のようなものでなければならないと申し上げているのではありません。宗教的なもの、もっと言えば、目に見えないものに対する価値観、その部分こそが宗教的なものであると思うのです。
大きな意味で申し上げれば、日本という国全体が、天皇を中心として国全体を一つの家族のように考えると言う点において、一つの宗教的な価値観を持っているわけです。ですから、宗教的な要素はとても大事なのであり、それをすべて排斥しようとすれば、とんでもないことになってしまいます。

政治においては、宗教的な倫理観、宗教的な価値観といったものが必要であると、このことを申し上げておきたいと思います。そうした意味において、信教の自由は絶対的に大切なものであり、それを侵してはならないということを、繰り返し申し上げておきたいと思うわけであります。

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https://youtu.be/mu4ihRJuiIY