寒かったべえ、あったまんな、飯できてんぞ ヨハネ福音書21章9節

タイトルを聞いて、なんのこっちゃと思われた方も多いかもしれません。これは、後藤望牧師、今私はこの牧師から聖書の手ほどきを受けているんですが、その方の説教のタイトルなんですね。

「後藤望の説教メッセージ」
https://www.ogasawara-church.jp/wp-content/uploads/2026/05/81623d45dd231601c435dfdc9de54458.pdf

引用聖句は、ヨハネによる福音書21章9節です。
「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」

ヨハネ福音書は、20章にイエス様が十字架にかけられた後3日以内に復活されたということが書いてあるんですが、その次の章です。この内容が、絵のように美しい情景が書かれているとおっしゃっています。イエス様が十字架にかけられて、ペテロを始めとした弟子たちは、衝撃を受けたわけですね。私たちが信頼しついていったイエス様が、なんと犯罪人として十字架につけられてしまった。イエス様はメシアだから、私たちの主として、万軍を率いて王国を作るんじゃなかったのかと、そういうことを期待していたのに、そうではない現実を目の当たりにして、びっくりして、恐れおののいてしまったということだと思います。そういうところに、イエス様が実際来られて、弟子たちに、「こちらにおいで、ご飯もできてるからおいで」と言ってくださったということが、こんな形で書いてあります。

「この時のペテロの心中を思うと、本当に可哀相になります。
それまで神がかりだったイエス様が、あっけなく十字架で死んでしまった、天の軍勢を呼んでローマ兵や威張り腐った祭祀達をやっつけるんじゃなかったんかい???
失意と失望・絶望、おまけにあれほど決して離れないと誓っていたイエス様を、あれほど慕っていた主を裏切って逃げ出して、その上イエス様の預言通りに鶏が鳴く前に三回もイエス様を知らないと言い張って・・・・
その上に一晩中漁をしても何も捕れない。
本当にペテロ達の心は砂を噛むような気持ちだったでしょうね。
この「何も捕れなかった」というのは、イエス様に従った三年間の生活はなんだったんだろう、虚しいという失望の象徴のようにも思えます。」

だいたい人間は、成功する人というのは、自分のやり方が良かったんだということで自信を深めて、その通りにやってまた成功して、やっぱり自分のやり方、自分の実力がいいんだと思ってしまいます。だから、神様が来られないというか、来られてもおそらく気づかないんじゃないかと思います。だって、神様と関係なく成功しちゃってるわけですから。

しかし、やってもやってもダメと、どんなにやっても実績も出ないという、人々からは蔑まれるような、一生懸命やったものが全く報われないどころか、非難されるような時に、追い詰められてしまうわけです。

後藤牧師は、このように書いています。

「しかしそんな時にこそ、私達が失意にあって背を丸くして下を向いている、そんな時にこそ、キリストは私達を見捨てず側に居てくださるのです。」

実際、神様は、成功してる人だろうと失敗してる人であろうと、来られると思うんですけどもだけど、成功している人は実力あるので、全然それに気付かない。そうじゃない場合において、神様が来られたということを感じるんじゃないかと思います。だからキリストは、私たちをのそばにいてくださるっていうのは、まさに神様がそういう方に寄り添ってくださるということなんだろうと思います。

「私達の主は強固な強い信仰の者に臨在してくださるのではない、そうではなくこのように弱い信仰、すぐに負けてしまう弱い心にこそ寄り添ってくださるのです。」

本当に、このような、慰みを得るようなメッセージだと思うわけです。
ペテロは、ヨハネの福音書に、船を出して漁をしても、全然魚が取れないときに、岸の方にイエス様が現れて、こっちにおいでと言われたんですね。ペテロはそれを見て、岸に向かって泳ぐわけですね100m近く泳いだということです。そして、イエス様の足許に届きました。

「泳ぎ着いた彼は主の足元にひれ伏してすすり泣いたのでしょうか、それとも足を抱いて号泣したのでしょうか。
勝手な想像ですが、緑豊かな朝もやの湖の岸辺で、ずぶ濡れのペテロは足元に正座して言葉も無しに呆然とただ主を見上げ、主はあたたかい慈愛の目でじっと彼を見下ろしている・・・そんな光景を思い浮かべてしまいます。」

イエス様は、もう炭で火を起こして、魚を焼いて食事を用意してくださっていたんです。

「こうやって主イエス・キリストは私達に生命の糧を与えてくださるのです。身も心も疲れ果てた私達に、主自ら朝もやの中で、炭火をおこして、魚を焼いて、パンを用意してくださるのです。
この聖書の食事の描写は、私達が疲れ果てて失いかけた信仰の力を取り戻すためのプロセスを象徴しています。
私達には失いかけた信仰を燃え立たせることは、自分自身の力ではできない、私達には自前の生命の糧は持ち合わせていない、それは復活の主が私達のために用意してくださるのです。主自らこうして私達を慰め、励まして下さるのです。」

「神の御子、主イエス・キリストは人の先駆けとして、死者の中から蘇って復活した姿を見せてくださったのです。
神が人としてこの世に生まれ、神が人として育って、神が人として過ごして、神が人として死んで、そして神が人として肉体をもって蘇って復活してくださった・・・この人間の論理では到底説明できない事実を目の当たりにする事によって、私達は納得し勇気づけられるのです。
そしてこのイエス様の姿は、私たちがパラダイスを経て新天新地に、肉体をもって移される姿を予告しているのです。
その意味においてこそ、福音は復活によって初めて完成するのです。」

まさに、キリスト教の神髄というか、神を信じる者の本質的なところを、お話しておられると思います。

私達は、家庭連合の信者でありますが、今言ってみれば、どん底にあると思います。国のためにと言って、一生懸命お祈りもしたし、スパイ防止法制定とかいって活動もしたし、世界のためにといって献金もしてきました。その全てが否定され、非難の対象となり、献金が多いからといって不法行為をしていたと裁判所からは決めつけられ、本当にどん底と言って良い状況だと思います。

けれども、神様の目から見れば、イエス様の目から見れば、そして私たちが敬愛する文鮮明総裁、韓鶴子総裁、真の父母と私たちはよんでおりますが、そこから見た時には、見える姿は全然違って見えるということだとおもいます。それを、2000年前の聖書から、学び取れるということだと思います。本当に、力が与えられるメッセージでありました。

このメッセージは、後藤望牧師の許可を頂いて、この動画でも紹介していいと言うことでありますので、お話をさせていただきました。

昨日ご案内した通り、後藤望牧師は、6月13日の信教の自由と人権を守る千葉県民の会のシンポジウムにご参加して下さいますので、もしお話を聞きたいなと、会いたいなと言う方がいらっしゃれば、ぜひ申し込んで、ご参加していただければと思う次第です。

信教の自由を考える千葉県シンポジウム
日時:6/13(土) 13:00 -15:00
場所:千葉県文化会館 小ホール
講師:中川晴久牧師、後藤望牧師
入場料:2000円(会員は無料)
ご参加希望の方は、下記フォームから事前申込をお願いします。
https://forms.gle/3gDTaRqStMYwDdrL7

動画はこちら
https://youtu.be/MTY6ktyJx3g