クオ・バディス 主よどこへ行かれるのですか?

ある方から紹介されて、小説「クオ・ヴァディス」を、本棚の奥から引っ張り出して、読みました。長篇で、丸二日かかりました。
著者は19世紀ポーランドのカトリック信者ヘンシエビキで、この本によってノーベル文学賞を受賞しました。

AD64年に、ローマ市内に大火災が発生しました。世にいう「ローマの大火」で、当時の皇帝はネロでした。小説では、犯人はローマが燃えるのを見たいという皇帝ネロの狂人的な発想により、部下が放火したとなっていますが、事実としてどうだったかはわかりません。事実としては、皇帝ネロは、大火の原因をキリスト教徒になすりつけたばかりか、キリスト教徒を闘技場でライオンに襲わせるなど民衆の歓心を買うようなイベントを行うなど、キリスト教徒を大迫害したことです。
キリスト教徒は宣教に来ていたペテロを国外に逃がそうとしますが、ローマを去ろうとするペテロの前にイエス・キリストが現れます。
「主よ、どこに行かれるのですか?」とペテロが聞くと、キリストは、「あなたが捨てたキリスト教徒のところに」と答えました。
ペテロは衝撃に打たれてローマに戻り、処刑されるという話です。

クオ・バディスとは、あなたはどこに行きますか、のラテン語です。ドミネというのが主よ、と言う意味で、ペテロはイエス様に対して、「クオ・バディス・ドミネ」と尋ねたのです。

「主よどこへ」、という言葉は、ヨハネ福音書13章36節に登場します。
「シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」
しかし今回は、イエス様の十字架を知り、自ら迫害を受け、その上でイエス様にお会いしたために、自分の弱さを知り、主が行かれた十字架の道を選ぶわけです。
イエス様が、どんなことがあっても人々を愛し、自分を許す存在であることが、よく伝わってきます。紹介して下さった方は、この場面を読むたびに、涙が止まらないのだそうです。

この小説には、さまざまな人物が登場します。そのなかで、キロンという人物がいます。
キロンというのは、ローマ貴族のウィニキアスに雇われた哲学者で、恋人でキリスト教徒のリギアを探すのを手伝いますが、後にキリスト教徒の居場所を密告して、隠れていたキリスト教徒が全員逮捕されました。
そしてキリスト教徒が虐殺される場面を見せつけられますが、その場で自分が裏切ったキリスト教徒から、「あなたを赦します」と言われます。
どうして裏切り者の自分を許せるのか?
自分がやったことで、数千人のキリスト教徒が殺されることで、後悔の念から逃げられないでいたキロンは、心から悔い改めました。
そこにパウロがやってきて、キロンに洗礼を授けます。
なんてことだ、こんな自分が赦されるなんて、それがイエス様が教える無償の愛なのか。
そんな経験をしたら、もうイエス様から離れることなんて、できないのです。
紹介して下さった方は、この場面も涙が止まらないとおっしゃっています。

「クオ・バディス・ドミネ」

私も、この言葉が、リフレインのように、何回も口から出てきました。
キリスト教徒は、無実の罪を着せられて、闘技場に追い込まれても、誰も不平や不満、恐怖すらも言いませんでした。ずっと天を仰ぎ、その表情には喜びすらあったそうです。迫害の最中とは、そういうものなのかもしれません。状況は違うかもしれませんが、家庭連合の信者は、やはり社会から抹殺されてしまいました。解散の手続きは、着実に行われ、信者は相当な圧迫を受けています。そんな中でも、私は家庭連合の信者が、清算代理人に反対したとか、ましてや暴行をふるったなどという話を聞いたことがありません。私たちが主と仰ぐ文鮮明先生は、40年前にアメリカ司法の横暴により刑務所に入れられても、模範囚として過ごしました。私たちはそれを知っているから、例え憲法違反の決定であっても、法には従うのです。

韓鶴子総裁も、不当勾留を受け続けており、現在は病院に移送されるほど衰弱されています。

「クオ・バディス・ドミネ」

不当な扱いを受けることに対して怨みも言わず、従容と国家の迫害を受ける姿。私たちは、まさに歴史の生き証人として、主と仰ぐ方が目指した方向を歩み続ける、そのことに誇りすら感じているのです。私たちを批判し続ける人もいますが、この経験だけは、他の誰にも味わうことができない、信仰者としての喜びであり特権であると、私は思っています。

動画はこちら
https://youtu.be/OxunCVuZCp8