イザヤの召命

本日、中川牧師の教会に行って礼拝に参加させて頂きました。打ち合わせをすることがあり、折角なので礼拝から参加させて頂いたのですが、その説教の内容が素晴らしかったので、ここでご紹介したいと思います。

お話されたのは、イザヤ書6章1節から8節のところです。イザヤが、預言者として召命された時のお話です。この部分を読んでみます。聖書は、聖書協会共同訳です。

「ウジヤが死んだ年、私は高く上げられた玉座に主が座っておられるのを見た。その衣の裾は聖所を満たしていた。上の方にはセラフィム(天使)が控えていて、それぞれ六つの翼を持ち、二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛んでいた。そして互いに呼びかわして言った。
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
万軍の主。
その栄光は全地に満ちる。
その呼びかける声によって、敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。私は言った。
『ああ、災いだ。
私は穢れた唇の者。
私は穢れた唇の民の中に住んでいる者。
しかも、私の目は、王である万軍の主を見てしまったのだ。』
するとセラフィムの一人が私のところに飛んできた。その手には祭壇の上から火箸で取った炭火があった。彼はそれを私の口に触れさせ、言った。
『見よ、これがあなたの唇に触れたので
過ちは取り去られ、罪は覆われた。
その時、私は主の声を聞いた。
『誰を遣わそうか。
誰が私のために行ってくれるだろうか。』
私は言った。
『ここに私がおります。
私を遣わしてください。』」

神から使命を受ける者は、栄光の立場ではなく、苦難の立場に立つことが多いのではないかと思います。
預言者も例外ではなく、神から言葉を受け取ってそれを語れば、世間の常識とは異なるわけですから、迫害されます。
それでも、そんな損な役回りをなぜ受け入れるかと言えば、神の痛みがわかるからだ、と中川牧師は解説されました。
モーセも80歳の時に、神の声を聞きました。モーセは栄光の座に着いたかと言えば、苦労して出エジプトを果たしたのに、死に際にあたって本人はカナンには入れませんでした。それでもモーセはなぜ使命を受け入れたかと言えば、神の痛みがわかったからだだそうです。
神様の痛みをわかった者が、「私が立ちます。」と言うのです。神様のみ意がわかった時に、使命が与えられた人が悟るというわけです。

中川牧師が、今日なぜこのような説教されたのか、私も分かりません。
しかし、私は勝手に、中川牧師が拉致監禁・強制棄教問題を指摘し続けるのは、同じように神の痛みを知り、同じように使命を悟ったからなのではないかと、思いました。

なぜなら、拉致監禁・強制棄教の実行犯は、キリスト教会の牧師たちであり、それを指摘するのは、やはりキリスト教会の牧師でなければならない、と中川牧師ご自身が発言されているからです。

神の痛みを知り、使命を悟った者が、「私が立ちます」と言って使命を負うのです。
中川牧師は、おそらくご自身のことを指して、この聖句を取り上げたのではないと思いますが、私には中川牧師の覚悟を垣間見たように思われました。

動画はこちら
https://youtu.be/JDnGO3iKlfg