国策裁判 失われる信者の利益が全く考慮されていない
東京地方裁判所の家庭連合に対する解散命令の決定については、おそらく最も大きな問題は失われる信者の利益が全く考慮されていないという点だと思っております。
この裁判においては、手続き論で論じられることが多かったと思います。例えば、解散命令の要件に刑事事件のみならず民法の不法行為が含まれていることが問題だとか、その不法行為について、訴訟のみならず裁判所で不法行為と認定されていない和解や示談までも含まれているとか、そもそも非訟事件であり公開の審判なしに解散するのは問題だ、という観点です。陳述書の証拠捏造事件も、手続き論と言えるかもしれません。
それはそれで戦っていくべきですし、私も主張し続けますが、憲法20条で保証された信教の自由について語る際に、今回の東京地裁の決定について、私が一番問題だと思っているのは、宗教法人が解散されるに伴って失われる信者の利益については全く考慮せず、単に反射的利益に過ぎないと言って、切り捨てている点だと思います。
非訟事件による決定と言えども、裁判所が行う裁判であることには変わりありません。裁判においては、文部科学省が主張するところの解散によって保護される利益と、教会が解散させられることによって失う信者の利益を、比較衡量するべきですが、その検証が全く行われていないのです。
信教の自由については、実は2つの視点があります。宗教法人としての信教の自由と、信者の信教の自由です。宗教法人であっても、法律的に見れば、権利義務の主体である「人」であることには変わりありません。解散命令は、まさに宗教法人としての信教の自由に関わる問題ではあります。しかしもう一つの視点は、その宗教法人に集う信者一人一人の信教の自由です。私が問題とするのは、この信者一人一人の信教の自由についてです。
東京地裁が行っている、「反射的利益」というのは、国が与えた利益について、国民がたまたま受け取った利益は、国がそれを供与しなくなったとしても、国民は文句が言えない、ということです。道路沿いに家を建てて、その道路が区画整理で遠くなってしまっても、国に対して損害賠償をすることはできない、というのがわかりやすい事例です。
それでは、教会の建物は国が与えた利益なのでしょうか?違います。
教会の牧師たちの給料は、国から与えられたのでしょうか?違います。
教会の建物は、信者一人一人の献金によって、建てられたものです。国から与えられたものではありません。牧師の給料も、信者が献金を出し合って、賄われています。国が給料を払っているのではありません。
教会に集い、牧師から説教を受けて、礼拝を捧げるというのは、信者にとっては、宗教目的の行為の中核的なものです。個人でのお祈り、経典の拝読も大切ですが、それと共に信者の交わりは信仰そのものです。その信者の交わりの場である教会を奪うということは、信教の自由が著しく損なわれるものなのです。
それなら、建物を信者個人間の共有所有物とすればいいではないか、という意見もあるかもしれません。しかし、法律的な話となりますが、教会の建物を個人所有としてしまうと、相続という問題が発生します。人間は必ず死ぬので、相続は避けることができません。その際に、信者でない人が共有財産を取得することになれば、運営に際して大きな問題が発生します。だから、宗教法人という、宗教を目的とした法人に財産を取得させ、相続問題から切り離すというのは合理的な考え方です。宗教法人のみならず、株式会社や一般社団法人など、およそ法人を設立する目的はそれです。
百歩譲って、よく報道されているように、家庭連合は宗教法人という税的優遇措置を悪用しているというのであれば、課税すれば済む話です。現行法においては、宗教法人と言えども、事業に対しては課税されます。これは、NPO法人や一般社団法人などでもそうです。税的優遇措置が問題だとすれば、課税範囲を広げればすむことです。しかし、東京地裁は、解散が「必要かつやむを得ないもの」だと断じています。おかしいですよね。
信者が失う利益について、全く考慮していないから、このような乱暴な結論を出すことができのだとしか、言いようがありません。
信者の失われる利益については、家庭連合はさんざん主張しています。信者の陳述書もその一つです。私も書きました。SEISYUN TVでも、二世たちがたくさん陳述書を書いたと証言しています。しかし、100ページを超える決定書のどこにも、それには触れられていません。
聖書にも、エフェソ人への手紙第1章23節に、「教会はキリストの体」だと書いてあります。信者の集いは、信仰そのものだというのが、キリスト教の伝統であることがわかります。他の宗教団体でも、神殿は信仰の対象であると思います。国家がそれを信者から奪い去るという、解散命令という行為は、信者に対して深刻な信教上の抑圧を与えることであり、これは他の宗教団体に対しても、脅威であると思います。
ちなみに、以前このエフェソの信徒への手紙の話をした時に、コメントで「これは近代的な教会ではなく、エクレシア即ち初代教会のことであって、信者の集まりに近いものだ」というコメントを頂きました。これについて、私が聖書を学んでいる先生に聞いてみたら、同じことをおっしゃっていました。同様の聖句は、コロサイの信徒への手紙第1章18節、24節にも見られます。そうであっても、信者の集まりの場そのものを国家が奪うことは、信者の信仰上の利益を奪うことであることには、変わりないと思います。
繰り返しになりますが、信者がお金を集めて、築き上げた教会は、信者の共通の財産です。国家から与えられた財産ではありません。それを国家が奪うことは、信者一人一人の利益を著しく損なうものであり、それについて一言も触れられていない東京地裁の決定は不当裁判であり、憲法20条の信教の自由の保証に違反しています。
動画はこちら
https://youtu.be/0PyZZiOjedc
