家庭連合に対して謝罪を強制するのはおかしい
家庭連合は解散命令の決定を受けました。そしてそれに対して、マスコミや全国弁連は、被害者に対して謝罪をするべきだ、反省すべきだ、と言っています。家庭連合の中にも、まず謝罪をすべきなのではないか、というような意見もあるようです。
しかし、私はこれに対して、非常に違和感があります。なぜなら、この裁判自体が不公正だからです。
法人の解散というのは、非常に重いものです。法人自体にも人権があり、権利義務の主体ですから、それを地上から抹消するということは、基本的人権の尊重という憲法の精神に抵触する可能性があるからです。
ましてや宗教法人の解散となれば、信教の自由に対する配慮が、絶対不可欠です。当然、教会を失うことによる信者の損害について、裁判において検討されるべきです。
しかし、今回の解散命令の決定書には、この点が決定的に欠落しています。
信仰というものについての基本的な知識が欠けているか、あえてそれを無視しているか、どちらかですが、いずれにしても決定書にはこのことに対して検討した形跡が全くありません。
キリスト教でも、教会を非常に重視しています。
新約聖書のエフェソの信徒への手紙第1章23節に、「教会派キリストの体である」と書いてあります。
400年前にピルグリムファーザーズがイギリスからアメリカ大陸に渡った時に、まず作ったのが教会でした。教会に集って、牧師が神の言葉を語り、それを受け取って一週間を出発するというのは、キリスト教の伝統です。教会は、信仰において、核心的な価値を持っているのです。
しかし、家庭連合の解散命令の決定書には、解散によって信者が失う利益は、「反射的利益」に過ぎない、と書かれているのです。
反射的利益というのは、本来得られない利益を、国の恩恵でたまたま受けているだけの利益、というような意味です。
教会を失うということは、信者にとっては大変な損失です。この裁判では、信仰の価値に対する理解が、絶望的に欠けているのです。
このような誤った価値判断のもとで、今回の解散命令の決定が行われました。
この裁判での「被害者」というのは、全国弁連が提示し、文部科学省が申し立てた、献金などの被害額で評価されています。
家庭連合の信者が失う価値については、信者が2万通の嘆願書を書き、5万名の署名を集め、数百の陳述書を書きましたが、それらは全く決定書には触れていません。
さらに、拉致監禁による強制棄教の被害者については、一顧だにされていません。被害と言って、これほど深刻な被害が他にあるでしょうか。
裁判というのは、双方の意見、立場を十分に考慮して、行われるべきものです。相手に謝罪や反省を求めるのであれば、まずそのような公正な環境を整えるべきです。
その前提を欠いたままで、強制されて行う謝罪や反省は、全く意味を持たないばかりか、有害であると私は思います。
もちろん、自らを振り返ることは大切です。私自身も、自分が話すこの言葉が、絶対的に正しいなどと思っているわけではありません。人間だれしも、間違える可能性があるからです。家庭連合についても、何から何まで正しいというわけではないでしょう。
しかし、それはどのような個人、団体にも言えることです。
反省というのは、自主的に行うべきことです。相手を攻撃する強い立場の者が、弱い相手に対して謝罪や反省を強制するならば、それはもはや権力の濫用以外の何ものでもありません。
ましてや、謝罪や反省をしないなら、本当に解散させるぞなどと相手に迫るのは、もはや脅迫と言えるものだと思います。
家庭連合に謝罪や反省を求めるのなら、まずそれができるような、公正な発言の機会が与えられるべきです。
それが民主主義国家たる、日本の社会の在り方だと思います。
動画はこちら
https://youtu.be/gou5128uY-c


