イエス様と私
イエス様私ということでお話してみたいと思います。自分のささやかな経験談ですので、聞き飛ばして頂ければと思っております。
私が一番最初にイエス様のことを知ったのは、小学校三、四年の頃です。私の仲のいい友だちのお母さんがクリスチャンで、誘われて日曜学校に通っていたことがあります。
外国人の宣教師がいて、子供向けの礼拝をしてくれました。礼拝では折り紙かなんかで遊ぶのですが、なんとなく楽しかったです。その時によく歌っていた賛美歌は、今でも口ずさむことができます。「いつくしみ深き友なるイエスは」とか、「主我を愛す、主は強ければ」とか、です。ただその時は、父親の都合で転勤してしまったので、それはそれで終わりでした。
その後、中学高校はミッション系の学校に通いました。今から思い返すと聖母マリア像がありましたので、カトリック系ということになると思いますが、当時はプロテスタントとカトリックの違いも知らずに、単にキリスト教系だとしか知りません。
学校の先生がキリスト教徒ということではなく、キリスト教の授業というのもありません。チャペルがあって、希望者はミサに参加することもできますが、別に誘われるわけでもなく、私は一回も参加したことがありません。
ただ、聖書の時間というのがあって、英語で聖書を読むのですが、正直退屈で仕方がありませんでした。私は、聖書というのは神話だと思っていました。創世記で、初めの人間としてアダムとエバが作られるというわけですが、人類は北京原人とかネアンデルタール人などの化石が存在するのだから、聖書を事実として受け入れることはできない、というわけです。アダムは930歳まで生きたと書いてありますが、まさに神話です。
そして、中高生となれば思春期で何かと悩むわけですが、宗教に頼る生き方はしたくないと、強く思っていました。神にすがるような生き方は、いやだ、というわけです。イエス様が十字架につかれたことは知ってましたが、それは歴史上の人物であって、自分とは関係ないと思っていたわけです。
こういう、いわゆる無神論者の私が、イエス様のことを強烈に意識することになったのは、統一原理に出会ってからです。自分なりに人生に対する問題意識があって、統一原理を学び始めたのですが、修練会に参加した時に、メシア論というのがあって、イエス様について説明がありました。そこで、イエス様が十字架につかれたのは人々の身代わりであって、その中に自分が含まれること、イエス様は人々が完全に神様と親子の関係を取り戻すために来られたが、その目的は未だに果たされていないことを知ったわけです。
イエス様は十字架上で、どんなに悲しかったことだろう、なぜなら、自分が救おうとした人々が、逆に自分を嘲り、十字架にまでつけてしまったわけです。そして自分がもしその場にいたら、周囲の人と一緒に、同じことをしたのだろうと思いました。
このイエス様の無念な思いを、二度と繰り返してはいけない、それが私が統一教会の教えを受け入れた理由の一つです。そして、イエス様の事情心情を文鮮明先生がご存じなのは、同じ使命を受け継いだからだと思ったわけです。
私の中では、文鮮明先生と、イエス様は、神から遣わされた人類の救い主として、同じ位置づけです。よく、「統一教会はイエス様は使命を失敗したと言っている」という人がいますが、私の中では全く逆で、イエス様がいなければ、人類はその場で滅んでいたに違いないと考えています。
子どもの頃の日曜礼拝、中高生の聖書講座、そして統一原理との出会いなど、神様は長い時間をかけてイエス様について、いろいろと教えてくださいました。今、私は、イエス様が語られた言葉や、イエス様の弟子たちが、どのように苦労して伝道したのか、そしてそれがどのように西洋文化として結実していったのか、知りたいと思っております。いろいろコメントを頂くなかで、たくさんのヒントを頂いており、感謝しております。
動画はこちら
https://youtu.be/r_uZT7nFgkg
