ガラテヤの信徒への手紙

ドラゴン牧師こと岩本達弘氏が、現在家庭連合の経典である原理講論の解説をYoutubeでされています。キリスト教神学の観点から原理講論を読むとどうなるか、という考察をされているわけですが、逆に家庭連合の信者が聖書を読むとどうなるか、ということで、私も聖書に関心を持っています。聖書の手ほどきをして下さる方がいて、学び始めています。
原理講論では、聖書の聖句を多く引用していて、私もそれらは覚えているのですが、それはあくまで聖書の一部です。新約聖書で2000年、旧約聖書で3000年もの期間、歴史の批判に耐えてきた書物とも言えるわけで、時代を超えた価値があると思います。

先回は、使徒言行録を読みましたが、今回はガラテアの信徒への手紙を読んでみました。
ガラテアというのは、現在のトルコの首都アンカラを中心とした地域で、パウロが3回にわたる伝道旅行で訪れた地域です。ここの信徒たちが、ユダヤ人の律法主義から抜け出せないのを見て、激しく叱責する手紙が、ガラテアの信徒への手紙です。
「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなた方がこんなにも早く離れてほかの福音に移っていこうとしていることに、私は驚いています。」(ガラテア1章6節)
冒頭から、パウロは怒っています。

そして、イエスの弟子であるペテロに対しても、異邦人と一緒に食事をしていたところにユダヤ人が来た時に、ペテロが恐れて席をはずそうとした時に、ペテロが立法主義から脱していないとして面罵しました。
「ケファ(ペテロ)がアンティオキアに来たとき、責めるべきところがあったので、私は面と向かって非難しました」(ガラテア2章11節)
イエスの第一弟子のペテロを面罵したというのですから、おだやかではありません。

それではパウロは何を怒っていたかというと、ユダヤ人の信徒が、イエスの教えを受け入れたにもかかわらず、ユダヤ人の習慣、すなわち律法に縛られているという点です。
パウロは、信じることによって義とされるという、信仰義認を主張します。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだとおいうことを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテア2章16節)
これは、キリスト教の中核をなす考え方であって、現在では当然とされていますが、キリスト教の初期においては、ユダヤ教の律法が、まだまだユダヤ人を縛っていて、それがイエス・キリストの教えを広める障害になると、パウロは考えていたのだと思います。

なぜパウロがここまで律法に拘束されることを否定したかと言うと、パウロは異邦人伝道を、天命と考えていたからだと思います。
「ペトロに働きかけて彼を割礼を受けた者への使徒として下さった方は、私にも働きかけて異邦人への使徒としてくださったのです。」(ガラテア第2章8節)
これは、有名なパウロのダマスコの回心における出来事のことを言っています。
「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である」(使徒言行録9章15節)

異邦人伝道をするためには、ユダヤ人の証である割礼を受けさせるわけにはいきません。だからパウロは、イエスの教えは、割礼を受けなくとも、イエス・キリストを信じるだけでよい、ということを何回も主張したのだと思います。
もしパウロが妥協していたら、異邦人にも割礼を受けさせることになって、キリスト教が世界中に広まることはなかったと思われます。だから、ユダヤ人であることに拘ったガラテアの信徒や、それに妥協したパウロに対して、パウロは怒りをぶつけたのだと思います。

こういう背景を想像しながら聖書を読むと、当時の伝道がいかに厳しく、そして激しかったかが、生き生きと浮かび上がるようです。
家庭連合も解散命令請求を申し立てられるなど、大変な状況にありますが、新しい考え方に対しては、常に反対者がいることは歴史が教えています。当時のことを偲びながら、聖書を読むのもよいのではないか、と思います。

動画はこちら
https://youtu.be/ZvhD6JCpfcw