ピューリタン 信教の自由の原点
大木英夫氏の著書「ピューリタン」を読みましたので、ご紹介したいと思います。大木氏は、元東京神学大学の学長で、日本ピューリタニズム学会会長でもあります。初版は1968の中公新書ですが、2006年に聖学院大学出版会から新訂されました。
ピューリタンは宗教改革の論理的中心となったジャン・カルヴァンの思想を受け継ぎ、イギリス、アメリカでプロテスタントの精神に基づいて社会を築き上げていった人々です。西洋文化と社会に対して非常に大きな影響を与えたという意味で関心を持ち、この本を読みました。
この本を選んだ理由がもう一つあります。それは、大木英夫氏は、ドラゴン牧師こと岩本龍弘牧師の恩師だそうで、「踏みにじられた信教の自由」にも取り上げられていることを、ドラゴン牧師の動画で知ったからです。「踏みにじられた信教の自由」のテーマは拉致監禁問題ですが、最終に「日本にも信教の自由の確立を」という章があり、そこで「ピューリタン」が引用されているのです。
大木氏は、この本の冒頭でピューリタニズムが中世から近代への構造変化をもたらした、と言っています。
まず、中世については、国家と教会が表裏一体の関係にあり、個人はこの国家及び教会に埋没した存在である、と言っています。国家・教会・個人が、不可分の関係にあるというわけです。下記引用します。
「中世から近代への構造変化をわかりやすくするため、一つの模型的説明を試みよう。中世のキリスト教的社会有機体を、一つの巨大な岩塊になぞらえよう。キリスト教は最初ローマ帝国の辺境パレスチナに発生した小さな宗教団体であったが、君が代の歌詞を借りれば、さざれ石がいわおとなるように、中世世界をキリスト教的文化総合の中に包摂した巨大な岩塊となった。これがコルプス・クリスチアーヌムの姿である。この社会を、教会と国家とが、楯の両面のように表裏一体となって包摂していた。教会と国家の間には、叙任権闘争のような性質の権力闘争が存在したが、教会と国家が表裏一体となってキリスト教社会を維持する原則は破られなかった。
次に人間の問題であるが、この社会における人間は、ちょうど大きな岩塊にその顔が彫り込まれた浮彫のような状態で、確かに個別的な人格はあるが、その背中は共通の岩に結び合わされているという、つまり連帯性の中の個人であった。個人はキリスト教的社会有機体の1分肢なのである」(P33-34)
そして近代の特徴については、3点を上げています。①これら国家と教会が分離され、②個人がそこから独立し、③国家と個人は契約関係である、と言っています。下記に引用します。
「まず第一に憲法論的に言うならば、コルプス・クリスティアーヌムを形作る教会と国家の結合が破れ教会と国家の分離が起こるという社会変化である」(P35)
「第二に、社会との関係における人間の問題であるが、この大きな岩塊が崩れ、その岩に浮彫のように彫り込まれていた人間は、バラバラになり、立像のように独り立ちせざるを得なくなる。背後の連帯性は失われてしまった。」(P36)
「第三に社会の問題である。近代の人間学的様相は個人化であるといったが、この方向への変化は、アプリオリに存在する全体性としての社会を根底のないものにして行く。この社会変化の極限は、アリストテレス的な「全体は個に優先する」という原理の逆転に至ることである。個人は有機体的全体の部分ではなく、独立した存在である。そして社会はこの個人を基礎として、契約によって編成されてくる。」 (P37)
それでは、ピューリタンは、中世から近代への構造変化に対して、具体的にどのような影響を与えたのでしょうか。これについて、大木氏は、ピューリタン成立の背景、ピューリタンの活動、形成された社会について、述べています。
まずピューリタン成立の背景です。
ピューリタンが生まれた背景は、1534年にヘンリー8世がイングランド国教会を打ち立てたところから始まります。ヘンリー8世は嫡男がおらず、キャサリン妃と離婚しようとしましたが、カトリック教会の総本山であるローマ教皇がそれを認めないため、独立したものです。当時カトリック教会から迫害されていたプロテスタントは、カルヴィニストの都市ジュネーブに逃げ、さらにカトリックと対立するイギリスに逃げ込みます。しかしイングランド国教会も、カトリック的な構造で国王と教会が一体となったナショナリズムであることに変わりはなく、プロテスタントたちを迫害するようになります。
そして、ピューリタンの活動です。
ここからピューリタンが生まれるわけですが、3つの活動が生まれます。
一つは、1935年に生まれたカートライトが行った地下運動で、これは弾圧されてしまいます。2つ目は国外脱出で、1620年のピルグリム・ファーザーズ及び1930年のジョン・コットンらのアメリカへの移住、3つ目はクロムウェルが起こした革命です。
本書から引用します。
「その対立の中で、3つの可能性があった。第一は地下運動であり、第二は国外脱出であり、第三は革命である。
第一の地下地価運動は、前にも述べたが、クラシス運動と呼ばれるもので、地下にクラシス(プレスビテリ=長老会)を作っていく運動である。カートライトはこの指導者の一人であった。しかしこれはアングリカン当局の厳しい弾圧を受け、1593年の反ピューリタン勅令によって息の根を止められてしまった。この挫折の後、ピューリタンの生き方は、説教運動の形を取らざるをえなくなる。
第二は国外脱出であるが、元来国内に留まることが困難となったとき、ピューリタンはエグレ(移民)となって国外に出たが、これは国内での運動が絶望的と感じられる時起こった。その劇的な出来事はメイフラワー号のピルグリムファーザーズの脱出である。その後も1630年に有力な牧師・神学者であるジョン・コットンらの大移住が起こり、アメリカにピューリタンの理想とする社会を建設することを企てた。
第三の道は革命である。エリザベスの壁はどうしても破れなかったが、エリザベスの死後40年にしてピューリタンは革命によって英国内にその理想を実現するまでになった。もちろんそのときカートライトの理想は、ほんの短時日の間、しかも相当に変化した形であるが、英国に実現されたに過ぎない。それは革命を経て実現された。」(P70-71)
このような形をへて、イギリスで、あるいは移民としてアメリカに渡ったアメリカの地で、ピューリタンの思想に基づく社会が形成されていきました。
それはどのような社会であったかといえば、民主主義の精神に基づく社会です。
まずは個人の意見の尊重です。基本的人権の尊重につながる話となります。
国王の権威は神によって与えられるというのがイギリス国教会の考え方でした。それに対して統治者の権威は、一人ひとりの個人に対に対して、神から与えられているという考え方を持っているわけです。本書を読んでみます。
「ここでクロムウェルがいう、神が一人ひとりに対して語るという思想は、ヨーロッパの中世から近代にかけての思想的変化における最もラディカルな変換を表現しているものである。というのは、中世においては神の真理はローマ教皇に与えられ、そして教皇から一般の人間が受け取らねばならなかったからである。宗教改革とはこの教皇の否定であり、教皇的真理理解の否定である。そして教皇を持たない場合、その反対は、ここにクロムウェルが言う「神はひとりびとりに」それぞれの仕方において語られるという理解が発生するのである。」(P166)
そして、個人と国家の契約による社会が形成されることになります。下記に引用します。
「ピューリタンはこの大きな歴史転換に際会して、新しく開けゆく社会を「キリストの国」のイメージで画き、その実現を待望した。父は神でありキリストでなければならないというわけである。しかし現実問題としては神やキリストのような超越的存在ではなく、もっと現実的な政権者によって早急に共和国確立し、それを運営する政府が樹立されなければならないのである。現実的には、専制的な王政に代わる人民の自由と幸福を実現する共和制の建設ということである。そしてこの共和制は、全人民的基礎の上に立つものでなければならない。政権が必要であることは明らかだが、政権者つまり「父」は全人民的基礎を持つ存在でなければならない。具体的にはレヴェラーが主張するような普通選挙権を基礎とした選出によらなければならないのである。」(P189)
この本を通じて思うのは、キリスト教が原始キリスト教のままではなく、カトリック、プロテスタント、ピューリタンとさまざまに形を変えながら、西洋社会に影響を与え続けてきたということです。そしてこの信教の自由というのは民主主義を形成するに至る、非常に大きな要素であったと言うことが分かります。なぜなら、ピューリタンは信教の自由を求めて、国外脱出をしたり、革命を起こしながら、理想を実現しようとしたからです。
一方でそれが絶対的に正しいかと言えば限界があり、民主主義社会と言いながらそれは様々な差別や植民地化、ナチスドイツのような全体主義も生み出しました。しかし、民主主義と資本主義、そしてそれに伴う社会の発展の原点は、信教の自由という純粋な精神性によるものだということは、間違いないことだと思います。