恩讐を愛することと、戦わないということは、違う
家庭連合は、現在行政から解散命令請求の申し立てを受け、マスコミも一方的な反家庭連合プロパガンダをしています。そして、家庭連合の信者は拉致監禁の被害を受けて、多くの被害者が出ていることに対し、行政もマスコミも警察も取り上げようとしない、こういうような状況がずっと続いています。
そういう問題に対しては、私たちは、戦わなければならないと思います。この事について、中川牧師とか、岩本牧師、それから外部の弁護士の先生方、徳永弁護士や中山弁護士、ノンフィクション作家の福田ますみさんも、論陣を張ってくださっています。そういう中で、当事者である私たち家庭連合の信者は、きちんと戦わないといけないと、私は思っています。それで、この動画も始めましたし、動画の元になるブログは、もう2年以上続けていますが、そういう思いがあるからです。
自分たちで自分たちのことを守らない、守ろうとしない人たちを、誰が助けてくれるのかと思うわけです。そして、私たちが戦うというのは、別に暴力で戦うとか、相手を人格攻撃するとか、そういうことではありません。過ちは過ちとしてきちんと指摘する、そして対抗措置も打っていく、そうすることで、私たちは自分たちの仲間を、家族を、守らないといけないと思います。
先の大戦でも、兵士たちは異国の地で戦ったんです。それは、相手が憎いということではなく、祖国を守りたいという、その一心だったと思います。そういうこと考えると、私たちも、自分たちの愛する者を守らないといけない、外敵から守らないといけない、そういうことだと思っています。
岩本牧師が、この点を指摘するときに、「み旨の道」から、これに該当する部分を探しだしてきて引用して下さったので、私も読んでみます。
「恩讐を愛せよという言葉は、恩讐の中にある罪まで、あるいは悪まで許せということではない。
悪にとりつかれているその人を可哀想に思えということである。」
ということです。動機は何かということを言ってるわけです。自分を攻撃する相手を憎むのではなく、むしろその人の罪を指摘してあげる、間違いを指摘してあげる、そしてこれ以上私たちの仲間を迫害することによって、大きな過ちを犯さないようにすると、そういうことだと私は思っています。
だから「恩讐を愛せよ」と言って戦わないというのは、単に何もしないことへの言い訳に過ぎないと思います。もちろん、これは信者一人一人の考え方によるのであって、そういう考え方を強制するとか、そういうことではありませんが、やはり「何かを守る」「大切なものを守る」、こういう気持ちは、絶対持っていなければならないと思います。
もちろん、戦い方はその人それぞれです。考え方やり方はいろいろあると思いますし、そこに違法行為があってはなりませんが、戦いそのものを放棄するということはよくないと、私は思います。
恩讐を愛するというまあ精神で、文鮮明総裁の精神を、一番表していると思うのが、文鮮明先生自叙伝の中の詩です。これは、イエス様と文鮮明総裁が霊的に出会ったということで書かれた詩だということです。
「人を疑えば、苦しみを覚え、
人を裁けば、耐え難くなり、
人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭をうずめて、苦痛と悲しみに震える私
間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた。
だまされても、信じなければ
裏切られても、赦さなければ
私を憎む者までも、ひたむきに愛そう
涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らないものを
裏切っても、悔悟を知らないものを
おお主よ! 愛の痛みよ!
私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のみ手を当ててください
底知れぬ苦悩に心臓が張り裂けそうだ
されど、
裏切った者らを愛したとき
私は勝利を勝ち取った
もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の冠を授けよう」
非常に、崇高な精神を語っておられると思います。
こういう精神を大切にしながら、しかしやることはきちんとやっていかなければ、大切な者を守ることができないし、ましてや神の栄光を守ることもできないと、私は思っております。
家庭連合は行政やマスコミなどから迫害されていますが、私たち信者は、「恩讐を愛する」ということを言い訳にして戦いを放棄してはならないと思います。 戦い方は人それぞれですが、大切な者、大切な教会を守るため、自ら戦うことが大切だと思います。