イエス様の最後の言葉

イエス様が、十字架上で最後に叫んだ言葉は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉で、これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。(マタイ27章46節)同じ言葉がマルコ福音書にも記録されています。(マルコ15章34節)
そして、ルカ福音書では、イエス様の最後の言葉は「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23章46節)、ヨハネ福音書では「成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)となっていますが、少し違いがあります。

私は長い間、このマタイとマルコにおいて、イエス様がなぜ、神様に訴えるような言葉を残したのか、不思議に思っていました。マタイもマルコも直弟子ですが、イエス様を見捨てて逃げだしていたので(マタイ26章56節)、直接聞いた話ではないでしょう。しかし、この言葉を福音書に残したのは、不思議です。まるで、イエス様が十字架につけた神を恨んだかのようです。
キリスト教の伝統的な理解では、もともと神様が予定していた道なのですから、神を恨むような言葉をイエス様がおっしゃるのは、不思議に思います。

家庭連合の経典である原理講論を見返してみましたが、それに該当する部分は見当たりません。原理講義では、「イエス様は本来は地上での使命があったにも関わらず、イスラエル民族の不信によって十字架の道を行かざるを得なくなったから」という説明を聞いたことがありますが、わざわざそれを言葉に出して、神様の心情を悲しませるというのは、少し無理があるように思いました。

これについて、遠藤周作の「イエスの生涯」を読んで、なるほどと思いました。新潮文庫のP208-209に、このように書いてあるのです。
「主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたもうや」それは詩篇22篇の初めの一句である。
多くの人々はこのイエスの言葉から彼の絶望を読み取ろうとする。この十字架上での彼に救いの手一つ差し伸べず、奇跡一つ起こさなかった父なる神に対する悲しみと訴え、絶望と哀訴とをそこに見つけようとする。そしてそこにイエスの悲劇と崇高さを合わせ見つけようとする。
しかし、私はこの考えには反対なのだ。反対の理由の一つは先に既に少し触れておいた。当時、磔刑者はさまざまな祈りを処刑場で口にしたが、その全文を記録する必要はなかった。冒頭の一句さえ書いておけば、その祈りの続きを暗記している当時のユダヤ人は、すべてをそこから読み取ることができたからである。
詩篇22篇は、「主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたまうや」の悲しみの訴えから始まる。そしてその訴えは自分が虐げられていることを語りながら、なお「私は汝のみ名を告げ、人々の中で汝をほめたたえん」という神の賛歌に転調していくのである。つまり、詩篇22篇は決して絶望の詩ではなく、主を賛美する詩なのである」
なるほど、そう受け取れば、納得がいきます。

最後の言葉と言えば、家庭連合においては、文鮮明総裁の最後の祈りというものがあります。
「今日最終的な完成の完結をお父様の前にお返しいたしましたので、
今日までの一生涯をお父様の前にお捧げしたと思っていますので、
そのみ意のままに全生涯を全うする時間を、
精誠を尽くして最後の時間を備えて、
氏族的メシヤが国家を代表できる名を成し、
この業を、すべてを成した、すべてを成した。
アージュ」
https://www.youtube.com/watch?v=mtXJgsMULiA
この、「すべてを成した」という言葉は、先ほどご紹介した、ヨハネ福音書の「成し遂げられた」に符号します。

イエス様の最後の言葉が、マタイとマルコの「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」なのか、ルカの「父よ、私の霊を御手に委ねます」なのか、ヨハネの「成し遂げられた」なのか、私にはわかりません。福音書によって最後の言葉が異なっている点は、いろいろと見解があるのでしょうが、いずれにしても、イエス様は最後の瞬間まで神様と一つであった、ということだと思います。

動画はこちら
https://youtu.be/XwvUxpvA5U8