信仰と親子関係
家庭連合の話題の中で、一つのテーマが浮き上がっているように思います。それは、信仰と親子関係ということです。
私たちは、拉致監禁は犯罪だと主張しています。これを保護説得だと言う方々は、「反社会的団体に入ってしまったわが子を取り戻したい」という親の切実な心がある、主張しています。しかしこれは、「信仰と親子関係」に係わるもので、とてもデリケートな問題だと私は思っています。
拉致監禁を行う親は、教会をやめさせないと、子どもは親のもとに帰ってこない、と思っています。実際、親が子どもに教会をやめさせようとすればするほど、子どもは親から離れていくケースは、少なくなかったと思います。拉致監禁を恐れるからです。
私のケースで言えば、親が強烈に家庭連合に反対していて、今でもそれは変わりませんが、拉致監禁はしませんでした。だから私は大学時代によく帰省したし、大学を卒業後一般企業に就職した後は、自宅から通勤していました。それでは私は親の信頼を得ることができたかと言えば、全くそうではありません。今でも母親は「統一教会は反社会的団体だ」と言い続けていいますし、私はだまされていると、そう言っています。そういう意味では、お恥ずかしい限りです。
恥を忍んで、なんでこんなことを言うかと言えば、私を反面教師にして、子どもの信仰に反対する親の方々に知って欲しいことがあるからです。それは、子どもが親に願うのは、「お前を信じる」という、たった一つの言葉だ、ということです。
拉致監禁されて棄教するケースでは、親を取るか、信仰を取るかという、ぎりぎりの判断を迫られて、本意でないながらも、「親は捨てられない」と思って、信仰を捨てるというケースが多いのではないかと思います。拉致監禁はされないながらも、私は何度もそういう局面がありました。
そういう方々は、統一原理が本当に間違いだと納得してやめたのか、それとも本心ではないながらも、諦めざるをえなかったのか。本当に苦しい決断だったと思います。
「信仰」と「親」と、二者選択を迫るのは、本当に残酷です。どちらも大切なものだからです。親からそれを迫られた時に、私は信仰を捨てることはしませんでした。祝福結婚式を受ける時も、大反対されましたが、私は受けました。「文鮮明は真の父なら、俺は偽りの父か?」と父親は怒りました。「真の父」というのは宗教用語であって、実の父とは意味が違うと言っても、納得しません。その父親は、もうこの世にはいません。
親に自分の人生を理解をしてもらうことができなかったのは、私が不足だからです。親のせいだとは思っていませんし、言い訳もしません。しかし、もし親が、「お前を信じる」と言ってくれたら、親子関係はずいぶん違ったものになったように思います。
だから、私は自分の子に対しては、「お前を信じる」と言えるようになりたいと思っています。教会に行くとか行かないとか、そういうことは関係ありません。「お前がやりたいと思うことであれば、それを信じる」と言えるかどうか。私には自信はないし、知らずに違うことをしてしまっているかもしれません。しかし、「例え世界中の人が非難しようとも、私はお前を応援する最後の一人になる」と、自分の子に言えるようになりたいのです。実際、私の子には、教会に行く子もいれば、そうでない子もいます。でも、自分が親であることは、永遠に変わらない事実であり、教会に行くかどうかは、付随的なことに過ぎません。
拉致監禁してわが子を取り戻したいという親も、もし子に対して、「お前を信じる」と一言でも言えば、その子は親の元を去ることは、ないと思います。だから、「保護説得しなければ、子どもを取り戻すことはできなくなりますよ」などと親に話す脱会屋の話を聞くと、私は許せないのです。
また、親と信仰の二者選択を迫られて、信仰を捨てた方がおられるとすれば、私はその方を非難することはできません。例えその方が、反家庭連合の立場、つまり「アンチ」となったとしても、です。なぜならば、私もそういう選択をした可能性があるからです。私の発信に対して、いつも反応して下さる方の中にも、そういう方がおられるかもしれません。私は、そういうアンチの方々には、哀惜の思いを持っています。神と真の父母に、一度でもご縁を持ったのであれば、例えアンチでも、神の側では永遠に忘れないはずです。なぜなら、神が親なら、何があっても「お前を信じる」とおっしゃるはずだからです。