キリスト教の世界宗教化
キリスト教は、誰でも知っている通り世界宗教です。国を越えて、世界中にその教えが広まっており、キリスト教文化を背景にして民主主義が根付いています。
キリスト教の母体となったユダヤ教は、ユダヤ民族のための宗教です。これは現在でも変わりません。ユダヤ教徒となるためには、血統の中にユダヤ人がいなければならないし、割礼という儀式を経て、ユダヤ人とならなければ、ユダヤ教徒にはなれません。ユダヤ教徒でない人々を、彼らは異邦人と呼んでいます。
これは、初期のキリスト教でも同様でした。最初ペテロなどの弟子たちは、キリスト教をユダヤ人に伝えようとしました。それに対して、「信じる者はもれなくイエスによって義とされる」(使途行伝第13章39節)と言って、異邦人にも伝道しようとしたのがパウロです。つまり、律法に従うユダヤ人であることを条件にせず、イエス・キリストを信じることのみを条件として、キリスト教徒としました。ここにおいて、キリスト教は、イスラエルという国ではなく、個人の救済を目的とした宗教に転換したわけです。これは、キリスト教が世界宗教になるために、とても大きい要素であったと思います。
もう一つの大きな転換点は、パウロが行った第2回の伝道旅行です。パウロは3回の伝道旅行と、ローマへの伝道旅行をしています。第1回の伝道旅行はトルコ半島を回って当時の伝道拠点であったアンテオケ、今のシリアに戻ってきました。そして第2回の伝道旅行は、トルコ半島からアジアに抜ける予定だったようですが、途中で予定を変更して、ギリシャ半島に抜けていきました。この様子が、旧約聖書に書いてありますので読んでみます。
「それから彼らはアジアで御言葉を語ることを精霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通って行った。そしてムシヤのあたりに来てから、ビテニアに進んでいこうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。それでムシヤを通過して、トロアスに下って行った。ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニア人が立って、「マケドニアに渡ってきて、私たちを助けてください」と彼に懇願するのであった。パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神が私たちをお招きになったのだと確信して、私たちは、直ちにマケドニアに渡っていくことにした。」(使途行伝第16章6節~10節)
マケドニアという国はギリシャの北部にあって、かつてアレキサンダー大王がトルコ、アジア西部、ヨーロッパ南部、アフリカ北部で制覇した中心的な土地です。パウロはそこからギリシャ半島にわたり、キリスト教を広めてから、アテネを通ってエルサレムに帰っていくのです。ここで、一地方宗教でしかなかったキリスト教が、ギリシャのヘレニズム文化と融合し、知的で論理的な宗教に変化して、西洋に広まる基礎ができたのだと思います。
もし当初の予定通りアジアに広まっていったら、「個人救済」「論理的」という、現代のキリスト教の基礎は築かれず、西洋で花開いて民主主義が築かれることはなかったかもしれません。
「個人の救い」という考え方は、西洋の文化に非常にマッチしたのだと思います。西洋は、もともとは狩猟民族であり、相手を征服して領土を広げてきました。西洋の歴史は戦争の歴史であるとも言えます。そのためには、相手が敵か味方かというシンプルな構図にする必要があって、キリスト教の「善か悪か」「神かサタンか」という二元論的な考え方が、論理的にも整理しやすく、西洋文化になじんだのではないでしょうか。
しかし東洋は、特に日本のような和を貴ぶような文化では、明確に二元化することを嫌います。個人の救済というよりは、家族や地域社会を大切にしようとするから、個人を強調するようなキリスト教文化は、そもそも根付きにくいように思います。これが、キリスト教信者が日本に少ない、一つの理由なのかもしれません。
民主主義はキリスト教を背景にした文化であることは、間違いありません。日本は民主主義国家の優等生だということになっています。これが真の優等生になるためには、キリスト教的な思想を理解した上で、日本のよさを生かした民主主義に育て上げる必要があると思います。そのためのキーワードが「家庭」ということだと私は考えています。
これについては、日を改めて、話してみたいと考えています。