信仰とは
信仰について、へブル人への手紙第11章(口語訳)に、このように書かれています。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(へブル人への手紙11-1)
この後に、信仰によって、アベル、エノク、ノア、アブラハム、モーセなどが捧げものを捧げて、正しいとされたことが、書き連ねられています。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(へブル人への手紙1-13)
理想の地を求めて、現在の苦難を乗り越え、結局求めるものは得られていなくとも、得たのと同じ確信をもって、次の世代に繋げていったというわけです。
人間は、具体的に目に見える成果がなければ、それを信じることは困難です。しかし、信仰はそれを乗り越えて、理想とするものが得られたのと同じように確信することができるというわけです。これは最も偉大な力ではないでしょうか。
「望んでいる事がらを確信する」とは、理想が実現することを信じることです。英語では「confident」と書いてあるので、理想が来ることに対して自信がある、ということです。
「まだ見ていない事実を確認する」とは、理想が実現することを、明らかに認識するということでしょう。英語では「assurance」と書いているので、それを保証するというのです。理想が実現することを、前もって確信し、確認するとは、容易なことではありません。
科学は、懐疑主義によって発展してきました。あるかどうかわからないことは、無いことを前提としてものごとを考えます。神についていえば、実在するかどうかわからないので、神はいないことを前提に理論を構築します。理想についても、実現できるかどうかわからないので、理想は実現できないことが前提となります。そうすると、批判はできますが、発展することは困難となります。
しかし宗教の場合、神がいるという前提から出発するので、理想は実現できることが前提となります。そうすると、実現するためにはどうするかを具体的に検討するので、発展することができます。
言い換えれば、科学ではできないことを、信仰は成し遂げることができる、という事ができるかもしれません。人間の発展のためには、理想を実現するための情熱が必要です。まだ見ぬ理想を実現するための情熱は、やはり信仰のもっとも大きな力ではないかと考える次第です。