排除の理論
私は排除の理論というのが嫌いです。何の理由もなく、ある特定の個人や団体を排除するというのは、やってはならないことだと思ってます。その意味で、最近で最も許しがたいのは、2年前の岸田前首相による家庭連合およびその関連団体に対する関係断絶宣言です。これは、まさに排除の理論です。「社会的に問題が指摘されている団体とも関係を持たない方針」(自民党のHPより)などという、あいまいな定義で、国民の憲法16条における請願権を侵害するというのは、暴挙としかいいようがありません。
私が、排除の理論が嫌いだという理由は、私自身の体験から来ています。
私は大学に入学して、いろいろ批判されているけれども、統一原理そのものを学んでみたいと思って、原理研究会に入会しました。それと同時に、クラスの自治委員にもなって、学生自治会活動にも参加するようになりました。当時の自治会は共産党の青年組織である民青(民主青年同盟)が牛耳っており、原理研究会を「公安警察のスパイ」「KCIAのスパイ」などと宣伝して学生自治会から排除していました。私は原理研究会には統一原理を学ぶために入会したのであって、当初は特段の信仰心があったわけではなく、自分が信者であるなどと学内でも話していませんでした。
まじめに自治会活動を続けて、同時に自分自身が信仰心を持つようになった頃、私が信者であることを隠して自治会活動をしているというような噂が流れ始めました。別に自分の信仰心を周りに言う必要はないのですが、隠しているなどと言われるのは嫌いなので、私はある日学内に立て看板を立てて、「自分は統一教会の信仰を持っている」という告知をしました。そうすると、私の周囲から学生自治会のメンバーのみならず、サークルの仲間や学校の同窓生など、みな私の近くから去って、私を無視するか、非難するようになりました。
こういうことは、何も家庭連合に限ったことではありません。実は社会の至るところで、根拠なく非難され、阻害されている人たちはいます。最近では、斎藤元彦前兵庫県知事も、マスコミからパワハラなどと書きたてられて、失職を余儀なくされました。また、鹿児島市のおはら祭りから、家庭連合が排除されたのも、記憶に新しいところです。日本では、差別反対などと言いながら、平気で排除の理論が横行しているのは、とても残念なことです。
私がそれでも、日本人を信頼しているのは、排除の理論に流されず、正論を言って下さる方々がいるからです。
私は大学を卒業して総合商社に入社しましたが、特に自分の信仰を同僚に話したりはしませんでした。大学時代の苦い思い出があったこともその理由の一つであったと思います。しかし、会社に入ってまだ1年目の1988年に、韓国で行われる国際祝福結婚式に参加するための有給休暇の申請の際に、私は上司に信者であることを話しました。上司はびっくりしていましたが、仕事をきちんとやれば問題ないと言ってくれました。私はそれ以降、この会社のためには必死に仕事をしようと思ったことを思い出します。その後の上司も、私が信者であることを知りながら、仕事とは別だと言って、正当に評価して下さいました。その上司とは、会社をやめた今でもお付き合いしています。
2年前に家庭連合のことが連日報道されるようになり、地元でおつきあいしている方も、ある方は私と距離を置き、ある方は変わりなくお付き合いをしています。私からすれば、私を排除する人はそういうものだと思いますが、そうでなく付き合って下さる方は大切にしたいと思うし、その方のためには一生懸命お役に立ちたいと思います。
もちろん、組織にきちんとしたルールがあって、そのルールを破ったと言うことであれば、組織から退会させるということは、当然あるべきです。そういうルールをないがしろにしてその会員を残しておくということは、逆に周りの会員に対して説明がつかないし、組織が崩壊してしまいます。しかし、そうではなく、排除の理論で誰かを排除するというのはあってはなりません。特に日本社会は、排除の理論が横行する傾向が強いように思います。
かく言う自分も、排除の理論に陥っていないか、時々自戒します。私はXでは特定のアカウントをブロックしないようにしていますが、これも排除の理論が嫌だからです。私に対して、いろいろネガティブなコメントを下さる方もいますが、それも一つの情報だし、大切な意見として受け止める必要があると思っています。