和賀真也著 「統一協会 その行動と論理」
反統一協会運動で有名な、セブンスデー・アドベンチスト教会の牧師である和賀真也氏が1978年に書いた、「統一協会 その行動と論理」を読みました。和賀氏は、統一教会に反対する運動において、当時は有名な方でした。この本も今から約50年前の本で、批判の論点もかなり古いものです。例えば、血分け教義だとか、統一協会の信者には精神異常を来すものが多い、といったものです。
和賀氏が、統一教会を批判する主な論点は、聖書解釈に関するものです。統一原理の経典である原理講論では、旧約聖書・新約聖書の聖句の引用が非常に多いのですが、その解釈が間違っている、というわけです。
この本の第4章「統一協会 その論理」において、原理講論に引用されている一つ一つの聖句の解釈が、いかに間違っているかという説明を、延々としているのです。特に、洗礼ヨハネに関する部分は、何ページにもわたって批判しています。
セブンスデー・アドベンチスト教会の教えは、「聖書の一言一句は正しい」、という立場のようですから、和賀氏からするとそれに反する教えは許せないのでしょう。だから、和賀氏が統一教会の信者を説得する場合には、統一原理の教えは、正しい聖書の解釈に基づいていない、と批判します。
しかし、正直言って、統一教会の通常の信者は、聖書とは全く関係なく伝道されてきています。統一原理が正しいから聖書も正しいのだろう、というような発想ですから、聖書の解釈が間違っていると言われても、ピンとはこないのです。そもそも原理講論は、キリスト教徒向けに書かれた本ですから、キリスト教の背景がない信者に対して聖書を根拠に統一原理を批判するのは、筋違いです。
そもそも、キリスト教会自体が、同じ聖書を経典としながら、カトリックやプロテスタント、さらにはカルバン派とルター派などと分裂しているわけですから、解釈がいくつにも分かれているのが現状です。私自身も、聖書を正しいと思って統一原理を学んだわけではないから、統一原理とそれまでのキリスト教の聖書解釈が異なるからと言って、統一原理が間違っているという証拠にはならないはずです。
私は、拉致監禁はされませんでしたが、親に連れられて和賀氏と会ったことがあります。そこで私が和賀氏に対して、以前から聖書について疑問に思っていたことを、いくつか聞いてみました。例えば、聖書はアダムが930歳まで生きたというが、生物学的にそんなことはあり得ないと思うがどうか。ダビデはイスラエルの王となり、部下(ウリヤ)の妻(バテシバ)を奪うようなことをしたが、なぜ許されるのか。ヤコブは二人の妻(レアとラケル)を娶ったが、それは重婚ではないのか。などなどです。今からすると、おかしな質問で恥ずかしい限りですが、当時としては、聖書が全て正しいから統一原理は間違いだという和賀氏の理屈に、自分なりに反論しようとしたわけです。
しかし、「原理講論の聖書解釈は間違っている」という和賀氏の説得が効果を発揮する場面があるようです。それが拉致監禁による強制棄教の現場です。和賀氏の本には拉致監禁の話は出てきませんが、別の本「日本版収容所列島」には和賀氏の話が出てきます。拉致監禁された異常な環境の中では、「世間的に権威ある聖書を、統一原理はねじ曲げて解釈している」などと説明されると、それに対する反論を得ることもできず、統一原理は間違っていると思い込むこともあるのではないでしょうか。
私は、聖書は家庭連合が大切にしている経典の一つであり、人類が何千年も生きる糧を得てきた本ですから、大切にしています。今も、聖書講座を聞いたりして、勉強しています。多くの恵みがあるし、学ぶことがたくさんあります。しかし、閉鎖的な環境下で家庭連合の信者の信仰を強制的に変えさせようという試みには、断固反対します。それは、聖書の解釈以前の問題として、信仰は自由意志によるべきであるという、民主主義の根本に関わる問題だからです。