拉致監禁の現場は話し合いではない ~それは精神的な拷問である~

拉致監禁による強制棄教については、それを正当化する理由として、「統一教会の影響がない場で、親子で話し合うには、これしか方法がない」、というものがあります。

しかし、拉致監禁の現場は、話し合いではありません。親兄弟や親戚に取り込まれ、こちらが言うことは一切聞き入れられず、一方的に教会や教義、教祖の悪口を聞かされるのは、話し合いとは言いません。その説得はいつ終わるとも知れず、そこから出ようと思っても出ることができません。それは、精神的な拷問であって、話し合いではないのです。

話し合いというのは、お互いに自由に意見を述べあって、同意できるところは同意する、同意できないところは同意しない、そうやって一つの合意を形成するものです。話し合いが成立する最低限の条件は、お互いに平等な条件にあるということです。

しかし、拉致監禁された信者は、圧倒的に不利な状況に置かれています。説得する側は、自分の言い分を一方的に話し続け、それに反論すれば、「だからおまえはマインドコントロールされているんだ」と個人攻撃をされます。こちらは一人、相手は数名では、太刀打ちできません。
情報量も不利です。拉致監禁された信者側は、手元に資料がありません。説得側は、様々な情報を集めていて、次から次に攻撃しますが、信者側には十分な資料がないため、きちんと反論することができません。
信者側が、疲れてその場を離れようとしても、外に出ることができません。説得側はお互いに連絡を取り合うことができますが、信者側は教会と連絡することはできません。

このような拉致監禁の状況について、詳しく説明している資料は、いろいろありますが、ここでは小出浩久氏が書いた「人さらいからの脱出」の一部を読んでみます。
「独断と思い込み、決めつけ、そして脅しとも言える説得法。これが宮村氏のパターンだった。自らの学問的土台がない故に起こってくる耐えざる不安と自信のなさのせいなのか、ここでも話してる間、彼はずっとタバコを吸っていた。
翌朝、再び宮村氏と松永牧師、そして四、五名の元信者がやってきた。
ちょうどその時、私は家族に「こんな環境でいくら話しあっても、お互いの理解を深めることはできない。もっと自由な立場で話し合うべきだ」と説得していた。
真剣に話しているところに宮村氏が闖入してきたので、私は「あなたがやっていることも言ってることも全て偽りだ。松永牧師はまだ聖書を信じているので許せるが、宮村さんあなたには偽りの、偽善の博物館ができる!」と叫んだ。
家族は逆上して、私を殴ってきた。右の方を殴られたので左のほうを出した。この時は嫌というほどメチャクチャに殴られ蹴られた。」

およそ、話し合いなどというものではありません。拉致監禁による強制棄教の現場、それは話し合いの場ではなく、精神的な拷問の場です。拉致監禁は身体を拘束する暴力ですが、実はもっと恐ろしいのは、自由を奪い、相手を取り囲んで、相手の話など一切聞かず、人格攻撃を続け、相手がギブアップするまでやめないという、拷問です。拉致監禁を受けた信者が、その後PTSD(心的外傷後ストレス障害)が発症するのは、ある意味当然とも言えるのです。
このようなものが、話し合いであるはずがありません。拉致監禁は、決して正当化することはできません。

動画はこちら
https://youtu.be/NI3rGDeapRU