「統一協会からの救出」 拉致監禁を美談に仕立て上げるな!
今日は、田口民也氏の著書である、「統一協会からの救出」という本を読みましたので、所感を述べてみたいと思います。
この本は、中川TVチャンネルで紹介されていたのですが、拉致監禁の手口が詳細に書かれており、拉致監禁を美化しているという点で、私は非常に違和感を感じました。
著者の田口民也氏は、もともと統一教会の信者で、統一原理に出会ったのは1965年ですから、今から60年近くも前のことです。家庭連合が日本で設立された頃の、初期の信者です。田口氏は8年間信仰生活をしますが、あることをきっかけに教会を離れることとなりました。そして心の空白ができたところに、北海道でキリスト教会に通うようになり、聖霊体験をして、クリスチャンになったということです。
そこで彼は、キリスト教の教義と統一教会の教義の違いに気づき、統一教会の教えは間違いだと考えるようになります。そして田口氏は、統一教会の信者を脱会させる活動に手を染めるようになります。牧師と手を組んで、統一教会の信者の親を教唆して、信者を拉致監禁させ、脱会の説得をするようになるわけです。
その根底には、「統一教会の信者はマインドコントロールされて、他の信仰を否定するようにされているので、そこから救出するには外界と遮断する必要がある」、という考え方があります。まさに、拉致監禁による強制棄教を正当化する理屈であり、さらにその手段が詳細に書かれているのです。
この本には、実際に拉致監禁された結果脱会してクリスチャンになったN君とその家族が登場します。
N君は拉致されて北海道に連れて行かれ、監禁されます。そこで無期限断食までして抵抗するのですが、だんだんとキリスト教の教義と統一原理の違いに気づき、脱会するに至ります。N君の親や妹も生活を犠牲にして拉致監禁に取り組み、N君が脱会したことを喜んでいるのです。親子の愛情による勝利として、拉致監禁が美談として語られているのです。
しかし、私は強烈な違和感を感じました。それは、第3者がまず親を説得し、親の子どもに対する愛情に付け込んで、親が子どもを縛りつけるという事に対して、許しがたい怒りを覚えるからです。この本では、それを問題視するところか、美談に仕立て上げているのです。
統一教会の信仰をやめて、キリスト教会の信仰を持つこと自体は、私は全く否定しません。信仰は本人の自由意思によるものだからです。しかしそのために、例え親であったとしても、一人の人間の自由を奪って密室に閉じ込め、信仰を放棄するまで解放しないという行為は、許されることではありません。そして、それをそそのかす反対牧師がいるということは、とんでもないことです。
私は、地元のキリスト教会の牧師とも親交があるし、時々その教会の礼拝に参加させて頂くことがあります。もちろん家庭連合の信者であることを最初にお話ししての上です。そしてその教会で牧師が語る説教にとても感動し、聖霊が働いていると実感しています。2000年間もイエス・キリストを信じ愛してきたクリスチャンの歴史は、とても素晴らしいものだと思っていますし、聖書に対する勉強もしなければならないと思っています。しかし、だからといって家庭連合の信仰を捨てようとは考えません。家庭連合で出会った神との経験は、私の中では何ものにも代えがたいものがあるからです。つまり、キリスト教にはその素晴らしさがあり、統一原理にもよい面があるのであって、どちらか間違いでどちらかが正しい、と決められるものではないと思います。
ところが、この本の一貫した考え方は冒頭にも述べたように、「統一教会の教義は間違いでり、信者はマインドコントロールされているから、そこから信者を脱会させるためには、拉致監禁という手段は正当化される」、ということです。
この主張は、目的のためには手段が正当化されるというものであり、断じて認めるわけにはいきません。成功事例としてのN君の話をいくら美談として取り上げても、それで正当化できる根拠にはならないのです。
家庭連合の多くの信者が、拉致監禁のために傷つき、親子関係が崩壊し、苦しんでいます。
その事実を多くの人に知って頂くことが、日本における信教の自由を確立するためにも、大切なことであると思う次第です。