宗教団体の教祖の言葉を切り取って教会批判するのは筋違い
今日は今日宗教団体において、教祖が語った言葉をそのまま切り取って、教会を批判するというのは筋違いだという話をしたいと思います。
文鮮明先生御言葉集や、韓鶴子総裁の言葉を切り取って、家庭連合を批判する方が結構おられます。しかしその言葉は、信仰を前提として信者に対して語りかけるもので、あってその言葉だけを切り取って信仰も無い方が家庭連合を批判するのは筋違いです。
これをキリスト教の例に当てはめてみると、よくわかります。イエス・キリストが信者に対して語った言葉は、非常に厳格で、実現不可能のものが少なくありません。
例えば、マタイ福音書第5章27節には、こう書いてあります。
「姦淫するなと言われていたことはあなたがたの聞いているところである。しかし私はあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」 現実生活では、自分の配偶者以外との性交渉を行えば、不倫ということで社会から非難の対象となります。しかしここでイエス・キリストが言っているのは、実際に不倫行為を行うだけではなく、思っただけでもだめだ、とこう言ってるのです。そんなことは、現実的にはできないのではないでしょうか。正直私も、いろいろな葛藤がありますが、それを理性で抑えているのが実態です。
それに続く29節ではこう書いてあります。
「もしあなたの右の目が罪を犯させるならそれを抜き出して捨てなさい」どうでしょうか、女性の裸を見て、目を抉り出す人、見たことがありますか。
30節には、「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」
どうでしょうか、できることではありません。
イエス・キリストの言葉は、非常に極端な例を挙げているわけですけれども、それは信者に対して、それができないほどに人間は罪深いのだということを諭しているのです。だから最後の48節で、「それだから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」とおっしゃっているのです。これはあくまで、信仰の目標がとても高いところにあるということを示すための言葉であることがわかります。自分の目を実際に抉ったり手を切り落とせ、などという意味で言っているのではありません。
つまり、教祖が語った言葉というのは、信仰を前提とする話なので、もともと実現不可能な言葉を言うことが多いのです。一言で言えば、「ぶっ飛んでいる」のです。
だから、これをそのまま100%実行することは困難なわけですが、私たち信者はその言葉を目標にしながら、現実の生活を生きています。その中で、「できるだけのことはしていこう、限界を越えていこう」、という努力はします。その努力の程度が、時には無理であることも、実際にはあります。例えば、「神に全ての財産を捧げよ」というような高い目標に対して、無理をしすぎた結果、家族の間でも問題が起きてしまうケースです。
家庭連合についても、文鮮明師が「自分を犠牲にして、すべてのものを捧げなさい」というようなことを言ったとして、そこだけを切り取って、家庭連合は文鮮明師の指示で高額献金を強制している、と言うのは、おかしな話です。動機としては純粋でも、現実の生活がついていかない場合、それをどうするかは信者一人一人の判断によります。もちろん、教会はそれをサポートするべきであり、問題がある際は、返金要請などにも応じているはずです。信仰の高い目標と現実生活をどう折り合いをつけていくかと言う点は、宗教が持つ大きな課題の一つでもあります。信仰を前提にした教祖の言葉だけで批判するべきものではありません。