家庭連合の純潔主義

家庭連合のバリュー、即ち価値観の一つに、純潔主義と言うものがあります。

家庭連合は、「純潔」をとても尊んでいます。すなわち男女の関係において、婚前交渉、即ち結婚の前には異性との性交渉はしないということ、それから結婚後は、配偶者以外の異性とは性交渉をしない、というこの2点です。

夫婦となった男女が、相手と異なる異性と性関係を持つことを、一般的には「不倫」と言います。これは文字通り倫理に反することとして、政治家や芸能人が「不倫」をすると、週刊誌などで大々的に報じられますから、社会的にも問題ある行為だとされています。

有名人に限らず、夫婦がお互いに、相手が別の異性と性交渉を行えば、信頼関係が崩れてしまい、最悪の場合は離婚に発展してしまいます。離婚に至らなくとも、「相手が他の弾性または女性と、性関係があるのではないか」と疑心暗鬼になることは少なくなく、探偵事務所がはやる理由はそこにもあるのでしょう。そういう不安がある間は、相手を100%信じることは難しくなります。

家庭連合においてはどうかと言えば、夫婦となった男女が、他の異性との性交渉、即ち「不倫」をしないという戒律は、非常に厳密に守られています。なぜならば、それは教義からくるものだからです。人間の罪、すなわち神との関係が切れてしまった原因は、はじめの人間であるアダムとエバによる不義なる性関係から始まった、というのが教義です。

従って、家庭連合の信者同士の結婚においては、相手が信仰を持っている限りは、不倫をする可能性はゼロとなります。不倫をするということは、そもそも信仰を捨てたということになって、もはや結婚の前提を欠くことになるからです。

婚前交渉については、どうでしょうか。日本の社会的な風潮から言えば、婚前交渉を制限するものは、ほとんどないと言って過言ではないと思います。結婚した時に、体の相性が合わないと困るから、などと言って性交渉を正当化しますが、それはお互いの愛を奪う行為であるとも言えます。

家庭連合では、純潔をとても尊いものとしています。その尊いものを、将来の配偶者のために大切に守ることを、家庭連合では教えているのです。世間で常識となっている、いわゆるフリーセックスは、その尊いものを、わざわざ自分の手で捨ててしまう行為だと考えています。もちろん教義としても、人間の罪の原因となった人間始祖の不義なる性関係を戒めるという点は、変わりありません。

日本の風習では、かつては女性のみに対して純潔を守ることを強要し、男性に対してはおとがめなし、ということがありました。戦後それに反発し、女性も自由に性交渉できるようにするべきだ、というフリーセックスの考え方が広がりました。家庭連合の教えが異なるのは、女性のみならず男性に対しても、純潔を守ることを教える点です。むしろ男性の方が性衝動が強いので、より男性に対する教えの方が厳しいと言えます。

こういう話をすると、家庭連合の信者は自由恋愛もすることも許されていないだとか、セックスるをする人権を侵害しているなどという人が現れます。そういう人々の主張の根拠は、自分自身の性的な問題を容認する、そういう考え方に立っているのだと思います。自分が性の問題を曖昧にしていて、他人に対して厳しく言うことができないから、逆にそれを容認するような考えを肯定しているのでしょう。

こういう風潮の中で純潔を主張すると、逆に非難されて大変ではありますが、私たちはその旗を降ろすことはありません。なぜならば、純潔主義は、家庭連合が訴える価値観そのものであり、バリューだからです。家庭連合以外に、そこまで純潔に対して厳しい団体が他にあるでしょうか?この点は、私たちの誇るべき点だと思っています。

これについて、家庭連合の純潔主義を否定するために、文鮮明師に関するデマを流す人々もいます。文鮮明師が、かつて多くの女性と性的を持ったなどというものです。この根拠とされているのが、「6マリアの悲劇」という本です。読むに堪えない内容ですが、書いたのは文鮮明師が興南刑務所という生死を彷徨うような環境で伝道した、朴正華という人物です。この人物は、文鮮明師に命を救われて、一生ついて行きますと誓った弟子ですが、自信が性的に非常にいいかげんな人物で、文鮮明師に厳しく指導されました。それを恨みに思い、デタラメを書いたのがこの本です。なぜデタラメとわかるかと言えば、朴正華自身が、「あれは全部嘘でした」と告白する本、「私は裏切り者」という本を、わずか2年後の1995年に書いているからです。その時の様子は動画にも残っていて、それを見ると、如何に人間が弱い存在であるかが、わかります。

家庭連合の教会に来てみるとわかりますが、どの教会に行っても、霊的に非常に清い環境を保っています。見た目はボロボロでも、霊的には清いことは、教会の外でいかに悪い思いを抱いても、それがすーっと消えていくことからもわかります。性的な問題というものは、これまで人類が解決しようとしても解決することができない問題です。異性を見たときの抑えがたい性衝動のために、どれだけ多くの人が過ちを犯してきたことでしょうか。

清いものというのは、汚れたものをいくら集めても、清くなりません。よごれた雑巾でいくら床を拭いたって、きれいにならないのと同じです。清くするためには、きれいな雑巾で拭かなければなりません。教会の創始者が清くなければ、清い教会ができるはずはないのです。そこからも、創始者の文鮮明師がいかに清い存在であったかが、わかります。もし疑う人がいれば、どこでもよいので、家庭連合の教会を訪ねてみればよいと思います。一発でそれを実感できるはずです。

家庭連合の純潔主義は、私たちが誇る文化であり、バリューです。文鮮明師は、これを「絶対性」と名付けました。絶対的に、性を守るということです。即ち、生涯同じ相手とのみ契るということです。このことは、家庭連合の何ものにも代えがたい宝であることを、是非ご理解頂ければと思います。

動画はこちら
https://youtu.be/rSJoXL5lJqk