誰が私を理解してくれるのか
宗教の如何を問わず、人が信仰の道に入る際には、出会いがあると思います。神との出会い、キリストとの出会い、あるいは人との出会いなど、いろいろあると思います。その際に、神について行こう、キリストについて行こう、と思う最大の動機は、神が、あるいはキリストが、自分のことを理解してくれているという確信が持てることではないかと思います。
多くの人から誤解され、非難された時、とても悲しく悔しいものです。孤立し、誰も自分を理解してくれないと思ったら、人は絶望します。そんな孤独の絶頂の時に、自分を理解してくれるたった一つの存在がいたら、命を懸けてもその存在について行きたいと、思うのではないでしょうか。
学校で、あるいは会社で、場合によっては家族からも、理解されないことはあると思います。冷たい言葉を投げかけられ、自尊心を傷つけられることもあるかもしれません。そんな時に、聖書を読んでキリストのことを思い起こすと、そこには自分よりももっとつらい思いをした方がいることがわかります。誰よりも神を愛し、神の国をつくるために、神に選ばれたユダヤ民族に神の言葉を伝えたのに、そのユダヤ民族から十字架につけられたキリストの心は、どれだけ痛かったことでしょうか。それでもキリストは、神を恨まず、ユダヤ民族を恨まず、却ってユダヤ民族のために祈りました。
自分よりも辛い立場の方が、自分のために祈って下さった!この事実に直面した時に、人は自分の恨みから解放されます。実際にキリストに会ったわけではないけれども、キリストの祈りは、まさに自分のための祈りだったと実感します。なぜならば、キリストの祈りは、単にユダヤ民族のためだけの祈りではなく、罪を持つ全人類の為に祈ったのであって、ユダヤ民族はその代表であるにすぎないからです。そうすると、その罪びとの中には、当然自分も含まれることになるのです。
このような出会いは、キリスト教だけのものではありません。多くの宗教で、教祖に帰依するのは、その教祖が苦労の末に、その教義を編み出したからです。裕福な王族の立場から全てを捨てて出家した釈迦牟尼もそうです。日蓮宗の教祖日蓮も、佐渡に流刑となりました。
そして、家庭連合の信者が、教祖である文鮮明師を慕い従うのも、同様です。社会から誤解され、拷問され、収容所で獄死直前までの苦労をし、それでも人類のために祈る姿に、自分の苦労が理解されたことを実感し、この方について行こうと思うのです。少なくとも私はそうだし、他の多くの信者も、そうではないかと思います。
迫害の中にこそ、真実がある!これが宗教の道を志す者の醍醐味であるとも言えます。そう思うと、今の家庭連合に対する誹謗中傷、罵詈雑言、その結果の解散命令請求ですら、歴史の中に刻まれるであろう、真実の記録になるに違いないと、私は思っています。苦労された神と真の父母と同じ道を生きている、それはキリストに従って殉教していった多くのクリスチャンの思いに通じるものがあるのではないか、そういう思いを持って、私たち信者は、今の時代を生きているのです。