国家の経営理念と経営戦略

私は本業が経営コンサルティングなので、経営という観点で、日本がなぜ約80年前の1941年に、日米開戦に踏み切ってしまったのか、日本という国の経営理念と経営戦略について考えてみました。経営理念とは、企業が何のために組織を経営するのか、その企業の中心的な価値観のことです。そして経営戦略というのは、その経営理念を実現するために、企業の経営資源、例えば資金や人材を、どのように使って成果を出すのか、具体的な施策のことを言います。これを、日本と言う国家に当てはめると、どういうことになるか、歴史を振り返って考えてみたい、というのが本日のテーマです。

明治維新以降、日本は富国強兵をスローガンに、欧米列強に追いつくことを目標に、国の指導者も国民もひた走りました。言わば、「富国強兵」が国家の経営理念そのものだったと言えます。この経営理念のもと、国が一つになったわけです。
そして日露戦争で大国ロシアに勝ってから、日本が目指したのは、日本がアジアの盟主たることでした。19世紀に、欧米列強は植民地政策を進めて、インド、東南アジア、中国大陸に進出しました。その中で、日本はアジア諸国の中でいち早く近代化を進め、欧米列強の植民地となることはなく、20世紀初頭に経済力・軍事力ともアジアで最も強力な国家となりました。
その時点での日本の経営理念は、アジアの盟主として、近代的な国家経営手法をアジアに広げるということであったと言えます。即ち、大東亜共栄圏を作り上げ、アジアを西洋列強から解放するという気概があったと思います。朝鮮半島で戸籍制度を浸透させ、ハングルの教育を広めて、識字率を高めたのは、その一例です。台湾の経営も同様でした。

もちろん、これは朝鮮半島や台湾、中国東北部がロシアに浸食されれば、国防上大きな危険があるという問題意識があったから行ったことで、日本の国益が優先されたことは間違いありません。しかし、西洋列強はアジアを植民地化して資源や市場を収奪することを目的としていたのに対し、日本は朝鮮半島や台湾を、日本国内と同様に大切に考えていた点、大きく異なると思います。現在では「大東亜共栄圏」は帝国主義的な発想であるなど、いろいろと批判の対象にはなっていますが、元々の経営理念としては、立派なものであったと私は思います。

ところで、「大東亜共栄圏」という経営理念に対して、経営戦略はどうだったでしょうか。経営戦略とは、経営理念を具体的に実現するために、経営資源を適正分配するものです。経営資源は有限ですから、外部環境と内部環境を冷静に分析して、有効に使わなければ、経営は失敗することになります。この点で、戦前の日本の国家経営はうまくいかなかったのではないか、と私は思っています。

一番の問題は、日本は己の力を過信して、無理な拡張を行ったということです。経営理念としては、大東亜共栄圏の建設のためという理想を掲げていたとしても、無計画に経営資源を越えた拡張をすれば、破綻してしまいます。また、現地の理解を得ることも重要です。そのためには、現実的な分析が必要です。孫氏の兵法に、「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」という有名な言葉がありますが、正しい経営をするためには、日本やアジアをめぐる諸外国の外部環境と、日本の国力という内部環境を正しく分析する必要があります。そこにギャップがあった場合には、現実的な解決策を模索するべきで、精神力で乗り越えようとするのは、正しい経営とは言えません。戦前の日本が冒した過ちは、ここにあったのだと思います。

1931年に満州事変が起きて、1932年に満州国が設立されました。日本が経営を間違えた分岐点はここにあったと、私は思います。そもそも昭和天皇は、無理な拡張はしないように、軍部、特に当時中国東北部を担当していた関東軍には厳しく指示していました。しかし、関東軍は満州事変を起し、軍事行動に出ました。そのきっかけとなった柳条湖事件、即ち満州鉄道の施設が爆破されたということで、満州地域を制圧することになるのですが、実はこの事件は関東軍の自作自演で、勝手にやったことだということが、後で発覚します。もちろん昭和天皇の指示を受けたものではありません。しかし、この事件が満州国設立のきっかけになったことから、真偽はうやむやになってしまいます。当時の日本は昭和恐慌のまっただ中でしたから、満州国ができたことは、日本中から大歓迎されました。資源のない日本にとっては、満州の資源は魅力でしたし、また中国は巨大市場だからです。

しかしこれは、欧米列強、特にアメリカから警戒心をよぶことになりました。そもそも満州進出は、自国の利益を優先したものであって、欧米列強が行った植民地政策と同じレベルのものです。「大東亜共栄圏」という理想的な経営理念とは、ずれてしまっていたと私は思います。
アメリカは中国に対しては中立戦略をとっていました。イギリス・ドイツなどヨーロッパ列強は既に中国に進出し、北京・上海・広州・香港、青島については権益をもっていましたから、アメリカとしては列強が未着手の東北部を中立化することが、巨大市場開拓のためには重要でした。そこに日本が満州国を建てて、実質的に経営に乗り出したのですから、看過することができません。

そして日本の人口規模で、満州という巨大な国を統治することには無理があります。満州事変という軍部の暴発がもたらした満州国経営は、経営戦略的にも無計画すぎたのです。満州国は、中国国民が自主的に運営するということになっていますけども、それ形式的なことであって、日本が実質的な統治権を持っていたということは、言うまでもありません。そのためには現地の日本人人口を増やすことが必要だったため、日本の国内から満州への入植者が募集されます。
個人的なことではありますが、私の祖父も、広島の田舎で次男でしたから、これに応募して、私の父や家族をつれて、満州に移住しました。そこで終戦を迎え、命からがら日本に帰国したのです。もしかすると、満州で家族は全滅し、私はこの世に生を受けていなかったかもしれません。だから私は、当時の日本の満州開拓政策に対いては、人一倍関心を持っています。

話は戻りますが、日本はもともと米国や英国とは、同盟関係にありました。それは第一次世界大戦においても、同様です。その関係に亀裂が入ったのは、やはり日本が満州国を作ったことが、大きな転換点だったことは、間違いないと思います。
その後、日本は1933年に国際連盟を脱退するなど、国際的な孤立化を深めていきました。そして英米は、蒋介石率いる中国国民党の抗日戦線に対して、物資を援助するようになります。日本は元々資源がないので、重要な物資、特に原油はアメリカからの輸入に頼っていました。アメリカはどんどん日本に対する経済的な圧力をかけるようになります。満州は、鉄鉱石や穀物などの資源はありますが、原油は産出しません。そこで日本は東南アジアに目をつけます。そこはイギリス・オランダが権益を持つ地域ですから、これらの国々も日本に敵対するようになります。そうして、ABCD包囲網とよばれる措置が取られました。鉄や原油などを日本に輸出しないよう、アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)が、手を結んだのです。

こうして日本は欧米から経済封鎖を受けるようになり、最後にアメリカから、「満州国から撤退しなければ原油の対日輸出を禁止する」という最終通告を受けました。いわゆるハル・ノートです。到底受け入れられない日本は、日米開戦へと突入しました。その結果どうなったか、ここで説明するまでもありません。本土空襲を受け、原子爆弾を落とされ、国土が焼け野原となり、満州どころか海外の権益を全て失いました。

日本は、経営理念としては、大東亜共栄圏、即ちアジアの近代化の盟主となり、欧米列強の浸食からアジアを守るという、立派な内容を持っていました。しかし経営戦略としては、なりゆき任せで無計画な膨張政策をとり、人材や物資、資金などの有限な経営資源を分散投資した結果、経営破綻してしまったのです。乾坤一擲の戦術として、日米開戦に踏み切りましたが、それは国土と国民の財産を賭けて、いちかばちかの勝負に出るということになってしまったのです。じり貧になった経営者が、一番やってはいけない行動です。

国家の指導者は、国の経営を任された人々です。国の内外の状況を冷静に分析し、決して国家が破綻するような判断をするべきではありません。
時にそれは、世論に反するものであっても、国の将来を任された指導者には、5年後、10年後、あるいは50年後、100年後まで見据えた国家経営を行う責任があるのです。
経営理念がいかに崇高なものであろうと、経営戦略を誤るようであれば、国の経営を任せることはできません。

今の日本の指導者はどうでしょうか。
国民は正しく判断するべきだと思います。

動画はこちら
https://youtu.be/f7T9FlQ6Hi0