広島への原爆投下に寄せて
8月6日は、原子爆弾が広島に投下された日です。今年で79年になります。
私は、両親が広島県出身で、父親は終戦は満州で迎えましたが、母親は広島にいました。家族は疎開していたけれど、祖父は被爆し、戦後白血病で亡くなりました。
祖父の記憶はほとんどないのですが、今から思えば、おそらく原爆による後遺症だったと思います。
私は、こういう悪魔の兵器を作ってしまったのは、科学者による傲慢だと思っています。
科学の発展の延長線上に人類の幸福があると固く信じて、アインシュタインを始め多くの科学者が原子力開発に参加しましたが、広島の被害の現状を見て、衝撃を受けたのではないでしょうか。
原爆開発の責任者であったオッペンハイマーは、さらに強力な兵器である水素爆弾の開発に反対し、公職を追放されたと言います。
原爆開発を後悔しているとは、終生言葉にはしなかったようですが、内心では激しい葛藤があったのではないでしょうか。
もちろん、国家安全保障の観点からすれば、原子爆弾を多くの国が保有するようになり、独裁国家である中国・ロシアはもとより、テロ国家である北朝鮮やイランも実質的な核保有国になっている現在、核兵器のバランスは必須です。
私は決して無条件に核兵器廃絶を唱えるつもりはありません。
ただし、科学の発展を妄信してこのような兵器ができてしまったことについては、深く考える必要があると思います。
人類の幸福において、何が必要なのか、何が平和の実現にとって大切なのか、問われているのではないでしょうか。
物質的な幸福が、必ずしも幸福や平和に貢献しているわけではないことに、人類は気づき始めていると思います。
そして、そのような問いに答えを提示することこそが、宗教の使命なのではないかと、私は思っています。