コリント人への第一の手紙 第13章
私は、新約聖書 コリント人への第一の手紙 第13章が好きです。おそらく、この聖句は、クリスチャンのみならず、多くの人々に愛されているのではないでしょうか。
私は家庭連合の信者であって、クリスチャンではありませんが、愛について具体的に説明しているこの聖句は、時々読み返します。
この手紙は、パウロによって書かれたそうです。最近キリスト神学の勉強会に参加して知ったことですが、パウロ書簡は、福音書が書かれる前に書かれたのだそうです。パウロはイエス様に地上で会ったことがありません。それなのに、どうやってイエス様が示す神の愛を、ここまで表現できたのでしょうか。本当に不思議です。
下記に引用します。
- たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。
- たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
- たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
- 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
- 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
- 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
- そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
- 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
- なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
- 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
- わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
- わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
- このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
「最も大いなるものは愛である」
私も不足な者ではありますが、愛をもって生活するよう、努力したいと思います。