人はなぜ宗教の道を行くのか

世界には様々な宗教があり、それを信じる信者が存在します。
親が宗教を信じているから、自分も自然に信仰するようになった、という方も、少なくないと思います。あるいは、もともと宗教とは縁がなかったけれども、自ら選んで信仰を持つようになった人も、多いと思います。私は後者ですが、信仰は自発的なものである以上、前者においても、親が信仰しているというのはきっかけの一つに過ぎず、何らかの自発的な動機があって、信仰の道を選んでいるのだと思います。

その動機とは、人によって様々だと思います。私の場合は、自分が生きる意味を知りたくて、統一原理を聞き、その理論性に感動して信仰を持つに至りました。そうではなく、神の存在を初めから疑わずに、信仰するという人もいるでしょう。あるいは、自分の限界に直面し、大いなる存在からの許しを感じて、神を信じる人もいるでしょう。100人いれば100通りの事情と動機があって、宗教の道に入るのだと思います。

おそらく、その共通点は、人間の存在を越える大いなる存在に対する畏れと信頼、そして愛情ではないかと思います。一神教の場合は、神は明確な人格を伴って人間に関わってくるし、別の宗教では、ある程度象化された形で現れることもあるでしょう。自分の先祖を敬うという文化風習も、ある意味現実とは離れた世界ですから、宗教的な要素があると言えます。

人によって感じ方や捉え方は違いますが、人間の心の中には、何らかの形で宗教心があるのは間違いありません。それが明確な形を持った場合に宗教の道に行くのでしょうが、そこで自分に合った宗教に出会えるかどうかが、問題だと思います。世の中に、様々な宗教が存在するのは、人によって接点が異なるために、自分に合った信仰を選択できる、という意味があるのかもしれません。

だから、宗教がお互いに別の宗教を「異端」とか「カルト」などと言って排斥するのは、意味がないどころか、有害です。その宗教でしか接点を持てない人からすれば、唯一の救いの道を断たれることになるからです。拉致監禁による強制棄教に至っては、信教の自由という以前に、明確に犯罪です。

一人一人の信仰心を尊重し、相手の宗教を尊敬する心を持つことが、社会の発展において重要なのではないかと、思います。