信教の自由について
日本国憲法の第20条には、信教の自由の保証が規定されています。私は、家庭連合に対する解散命令請求の一連の手続きが非公開であり透明性を欠いており、憲法第20条に違反している恐れがあると考えています。
しかし、そもそも何故信教の自由が保証されなければならないのでしょうか。これは、多くの宗教人にとって、重要な問題だと思います。
私はその理由は、社会秩序を成立させている倫理的な価値観の土台に、宗教的な理念があるからだと思っています。
自然界は、弱肉強食が大原則です。強いものが弱いものを食べて、食物連鎖が成立し、それが自然界の調和をもたらしているからです。
ところが、人間界では、強いものが弱いものを殺したり、奪ったりすることは、倫理的に許されません。
この背景には、人間の社会が発展するためには、お互いに協力した方が効率的であるという、合理的な判断もあるかもしれません。
しかし、一人一人の行動を律するもっと大きな動機は、良心の呵責というブレーキだと思います。この良心の呵責は、倫理観からもたらされるものであり、そのベースには何らかの宗教的な背景があると思います。
日本人は無宗教の人が多いと言いますが、「お天道様が見ているぞ」という言葉の通り、何らかの目に見えないものを畏れ敬う心が、宗教文化として定着していると見ることができます。
西洋では、人格を持った神という、キリスト教やイスラム教などの一神教が文化の根底にあり、それが宗教的な倫理観を醸成してきました。
つまり、人間社会の倫理の根底には宗教的価値観があり、それが社会秩序を守る大きな要素になっているから、公益性があるのです。
人間社会の発展の沿革から見た時に、宗教がもたらした恩恵は、非常に大きいものだと思います。
従って、信教の自由については、単に憲法20条という法的な論拠だけでなく、そもそも人間社会の発展に貢献してきた宗教の位置付けについて、見直されるべきだと思います。