大地の咆哮

元上海総領事 杉本信行氏の著書です。杉本氏は1974年外務省に入省、それまで中国とは何の縁も無かったけれども、外務省の中国専門家、通称チャイナスクールの一員となり、台湾を含む14年間中国に滞在した、中国のスペシャリストです。

2001年9月より2004年11月まで上海総領事として勤務、末期がんが見つかって帰国してからこの本を書き始めて2005年7月に発表し、その1年後の2006年に他界しました。

冒頭、2004年5月に「このままでは国を売らない限り出国できなくなる」との遺言を残して自殺した総領事館員のことに触れています。詳しくは記されていませんが、この事件は杉本氏に大変な衝撃を与えたに違いなく、それが死を目の前にして残る体力を全て注ぎ込んでこの本を書き記した理由であったと思います。

私は、2001年12月から2006年9月まで、仕事で上海に駐在していました。杉本氏が上海総領事であった期間と、ほぼ被ります。本を読みながら、当時のことがいろいろと思い出されました。20年前の中国と今の中国では大きな違いがありますが、共産党独裁体制という変わらぬ環境下での体験は、今に通じるものがあると思っています。

杉本氏は本書で中国の問題点を厳しく指摘します。独裁政権によってどれだけの格差と貧困がもたらされているか、自由が奪われているか。あって無いような法律、恣意的な行政など、中国の内情を知り尽くしているだけに、その指摘は非常に厳しいものです。
その一方で、無償ODAなど多くの施策を中国に対して行ってきました。中国の農村が貧困なままでは国情が不安定になり、それは日本の安全保障上マイナスになるという観点です。日中間には、尖閣諸島、台湾問題、首相の靖国参拝など、多くの問題が横たわっていました。中国を日本国内から非難するのは簡単ですが、日本政府を代表し、在中国邦人の安全を確保しながら、外交の最前線に立つことは、大変なことだったに違いありません。
そしてその根底には、国家体制と中国人民を一旦は切り離し、中国の文化と民族に対する愛情とも言える思いがあったのではないかと、私は思います。

しかし、最後の駐在地である上海で、大切な部下が冒頭述べた遺言を残して自殺しました。その理由は本書には書かれていませんが、国家ぐるみのハニートラップであったことが、のちに報道されました。当時日本人相手のカラオケ店が雨後の筍のように乱立し、そのホステスと仲良くなってしまった総領事館員が、中国の公安警察から機密を差し出すよう脅されたのです。人の弱みにつけ込む卑劣な手口です。館員が自殺し、その理由を知った杉本氏は、どのような思いであったでしょう。一生をかけて日中間の関係を改善しようと努力したのに、最後に裏切られたと言う絶望感に襲われたに違いありません。そしてご自身も多忙が祟って発見が遅れて末期癌となり、半年後に帰国したわけです。

「大地の咆哮」というタイトルは、杉本氏自身のぶつけようの無い叫びであるような気がしてなりません。

中国は、江沢民から胡錦濤、そして習近平の時代となり、この20年間で経済的な実力を蓄え、益々覇権主義により日本と周辺諸国の安全保障に脅威を与える存在となりました。 それでも、杉本氏が死の直前まで願い続けた想いは、忘れてはならないと思います。