信者の献金
家庭連合の財産を如何に保全するか、ということが議論されています。
これは、信者の献金を宗教的な行為であることを否定する前提に立っています。
家庭連合の財産は、信者の献金が財資です。献金は信者が世界に貢献することを願って、自らの意志で神に捧げたものです。
一方、かつて信者だった方々が意思を変えてかつて自分が捧げた献金を返すよう要請しています。こちらも、様々な思いを抱きながら、要請しているのだと思います。
家庭連合は、信者の真剣な思いを受け止めながら、かつて信者だった方々の要請に個別に丁寧に対応しているものと理解しています。だから私たち信者は、対応を家庭連合に信任しているのです。
しかし財産保全法を議論する国会議員は、私たちが捧げた献金を、単なる資産としてしか見ていません。信者の献金が宗教的な行為であることを否定し、その声も聞かずに一方的に法律を作って凍結しようとしているのです。信教の自由に関わる微妙な問題に、どうして国家が介入しようとするのでしょうか。
家庭連合は、返金を要請する方々の心情にも配慮して、特別供託金の提案までしています。信者の立場からすれば、神に預けたつもりのお金が、国に預けられるということですから、戸惑いもあります。しかし家庭連合が信者の思いにも配慮しながら決めたことだから、私は支持します。しかし国会では特別供託金については全く議論されていません。
もし国が家庭連合の財産を差し押さえるのであれば、私たちの献金は宗教的な意義を失います。そうなると、信者は今後一切献金ができなくなります。国の税金と同じ位置づけになるからです。
この議論の延長線上には、信者の献金を家庭連合の債権とみなして、信者の個人財産まで差し押さえる可能性も否定できません。献金を宗教的な行為ではないと言い、家庭連合が徴収しているという発想からは、献金を徴収する債権が家庭連合の財産とみなされる可能性があるからです。実際、信者が海外で献金することを非難するような声も聞かれます。信仰ゆえに個人財産まで差し押さえるようなら、もうこの国に信教の自由は完全に消滅してしまうでしょう。