経済と精神
経済と精神は、一見何の関係もないように思えます。しかし歴史上、経済と精神は深い関係があると私は思っています。
昔から、世の中には「お金は卑しいもの」という考え方があるのではないかと思います。
イエス・キリストの時代に、税を取り立てる取税人は一番嫌われた存在でした。ルカ福音書に、ザアカイという人物が登場します。ザアカイは取税人で金持ちでしたが、イエス・キリストが通りかかると、一目でいいから会いたいと思い、いちじくの木に登ります。イエス・キリストがそれを見かけて声をかけ、「今日あなたの家に泊まろう」と言うと、周りの人々は、「かれは罪人の家にはいって客となった」と言って非難します。(ルカ19章7節)
日本においても、金儲けをする者は蔑視される傾向がありました。江戸時代の階級でも、武士は、武士道という名の通り、精神的な潔さや名誉が尊ばれましたが、商人は士農工商の一番下に位置づけられてきました。
しかし、人間は精神面だけではなく、物質的にも豊かになろうとして、不断の努力をしてきました。
この点について、経済と精神が強い関係性をもっていると論じたのが、マックス・ウェーバーです。彼は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、産業革命の発祥の地イギリスで資本主義が発達した背景には、神の栄光を表すというプロテスタントの勤勉性が大きく寄与したと説明します。
仕事をすることに、単に金儲けだけではなくて、精神的な意味合いを持つことは、日本人の仕事に対する意識にも現れていると思います。日本人の「いい仕事」に対するこだわりは、優れた製品を生み出し、かつてアメリカをして「Japan as No1」と言わしめるほどの経済成長をもたらしました。私も、父親の昭和世代はがむしゃらに「仕事」をしていて、その姿は何か神聖なもののように思えたものです。
現代の経営学においては、リーダーシップ理論がとても重要なものとして位置づけられています。つまり、メンバーが価値観を共有し、それぞれの夢や希望を実現することが、マネジメントにおいて重要な要素となっていて、それを引き出すのがリーダーシップであり、会社の収益と深い関係性を持っているのです。ここでも、単なる利益追求だけでは会社の発展に限界があり、社員の自己実現欲求を満たすという精神面が重要であることが認識されているのです。
共産主義の考え方では、経済は労働力という物差しでしか図ることができないから、計画的な経済と、それをいかに分配するかということに重点がおかれます。しかし、人間はモチベーションを高めなければ、価値を生み出すことはできません。人間の創造性が価値を生み出すという精神性を否定する共産主義では、発展することはできないのです。
