天から与えられたもの

世の中には、貧富の差や、地位の差、力の差などがあります。お金や地位や力を、持っている人と持っていない人がいるわけです。

共産主義的な考え方では、これらの差は他人から奪った結果だということになります。資本家は労働者からお金を搾取した結果、金持ちになったというわけです。

しかし宗教家はどう考えるかと言えば、これらは全て天から与えられたものだと考えます。全て与えられたものだから、天に感謝するべきだ、ということになります。これが感謝の生活です。

しかしここで、問題が発生します。どうして天は、人によって、多くを与えたり、そうでなかったりするのでしょう。神が愛ならば、全ての人に等しく与えたらよいのではないでしょうか。

この問題を解くカギは、人間は一人で生きていくものではない、ということだと思います。多く与えられた者は、それを人のために使わなければなりません。それが、「為に生きる」という生き方です。

私は結構音楽が好きで、車を運転したり、作業しながらBGMを流します。いつもはB’zとか、Queenとか、昭和のロックを聞いていますが、この連休はなぜかモーツアルトのレクイエムを聞いていました。そして、昔見た映画「アマデウス」を思い出しました。天才モーツアルトの才能に嫉妬し、モーツアルトを陥れようとするライバルのサリエリの物語です。その中で、モーツアルトの最後の曲「レクイエム」の作曲を、サリエリが手伝うシーンがあります。モーツアルトは死ぬ直前まで作曲していました。もしモーツアルトに作曲の才能がなければ、命を削ってまで作曲に没頭することはなかったかもしれません。次から次にあふれてくる曲を記録する使命があったために、モーツアルトは命をすり減らしてしまったのではないでしょうか。

天から与えられたものは、天に返さなければならない、それは平坦な道ではありません。そうなると、多くを持つことが必ずしも幸福とは言えないような気もします。もし使命を果たせなければ、失うものも多いからです。

天から与えられたお金は、自分だけでなく人のためにも使うべきです。天から与えられた時間は、自分だけではなく人の為にも使うべきです。天から与えられた地位は、自分だけではなく人々のためにも行使すべきです。こういう発想は、家庭連合のみならず、多くの宗教に通じる思想ではないかと思っています。