信仰とは
私は家庭連合の信者ではありますが、いまだに神の存在について、その確証を求め続けています。40年以上信仰を続けていますが、もしかしたら神は存在しないかもしれないし、メシアも存在しないかもしれません。その可能性は、完全には排除できません。
新約聖書に、こんな言葉があります。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ぬ事実を確認することである」(へブル書第11章第1節)
私はこの言葉が大好きです。願っていることは必ずかなうし、それを事実として実感することができる、というわけです。
しかし私なりの勝手な解釈をすれば、「神を知ることを願い続ければ、見えない神をいつか実感することができる」、とも読めます。
統一原理では、罪を「サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう」(堕落論第4節(5))と定義しています。これを神側から定義しなおせば、「神と相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件が成立しなくなった」ということになります。つまり、神を見ることも認識することもできなくなった要因を、罪というわけです。
人間は罪ある限り、神と無条件に交流することができなくなりました。神と人間は親子なのに、神から人間は見えても、人間から神は見えません。現代科学は、認識できないものは存在しないと考えるから、ニーチェは「神は死んだ」と言いました。それでも私は、神の絶対的な愛の懐に抱かれてみたい。まだ見ぬ神のぬくもりを感じてみたい。神が愛だというなら、それを信じて努力し続ければ、いつか条件が満ちた時に、感じることができるに違いない。
これが、私の信仰の原点です。40年間も信仰生活をしてきて、神様を実感できたと言えるのは、片手で数えられるくらいの回数しかありません。しかし、そのわずかな体験は、自分にとっては宝物のように尊く、何ものにも代えられないものなのです。家庭連合に限らず、宗教を信仰するものは、そんな共通点があるのではないかと思っています。
神を知ることは、心霊と真理によると言います(ヨハネ福音書4章23-24節)。理論をどれだけ積み重ねても、心霊で悟らなければ、神を知ることになりません。その心霊的な確証を求め続け、必ずそれが得られると確信し、確認することが、信仰の道なのかもしれないと、思っています。
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